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しばやんの日々

京都のお寺に生まれたしばやんが通史とは異なる視点から日本の歴史に斬りこみます

金閣寺に建立された北山大塔(七重塔)のこと

知人に案内するために久しぶりに金閣寺を訪れてみたが、平日の朝の開門前に数百メートルの長い列ができているのに驚いた。昔はそれほど並んだ記憶がないのだが、今は京都市内の有名観光地はどこも外国人観光客で溢れている。いくら観光客が多くても、庭園内に立ち入り禁止区域がうまく設定されているので、誰でも鏡湖池を前にたたずむ国宝・舎利殿の美しい写真を撮ることが出来る。このブログで室町幕府第三代将軍足利義満が応永六...

江戸幕末期にロシアに占領されかけた対馬は如何にして守られたのか

江戸時代に入ると幕府は海外との貿易を統制することとなり、日本に来航する外国船はオランダ船と中国船に絞りこみ、かつ来航地は長崎の出島に限られることとなった。しかし、よくよく考えると、いくらわが国が諸外国に「鎖国」を宣言したところで、侵略する意思のある国を追い払うためにはそのための武力が不可欠である。江戸時代のはじめに幕府が主導して貿易統制を決めることが出来たのは、その当時のわが国が世界最大の鉄砲生産...

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を置いていただいている図書館リスト

いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。初めての著書を出版して半年が過ぎました。今は、拙著を書棚に並べていただいている書店はほとんどなくなってしまいましたが、いくつかの図書館で、拙著を置いていただいていることが判明しました。全国にある7000以上の図書館の蔵書検索サービス『カーリル』を使って、拙著を置いていただいている図書館名を調べてみたところ、43の図書館がヒットしました。下記の表がそのリ...

応仁の乱勃発地の上御霊神社から、義満が史上最大の七重塔を建てた相国寺を訪ねて

室町幕府第三代将軍足利義満は、明徳三年(1392年)に南北朝の合一を実現し、守護大名をおさえて全国支配を完成させると、現在の同志社大学の今出川キャンパスの西側(北小路室町)に邸宅を移している。この邸宅の敷地は、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれ、東西一町南北二町を占める広大なものであった。【室町殿の敷地】この土地は二代将軍足利義詮の時代に、室町季顕から、その邸宅である花亭を...

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』に新聞書評がでました

いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されて5か月が過ぎましたが、出版社より新聞の書評が出たとの情報を頂きました。この本では戦後の教科書やマスコミがタブーにしてきた史実をいろいろ書いたので、新聞に書評が載ることはないと考えていましたが、8月27日付の「東日新聞」に載せていただいきました。Wikipediaによるとこの新聞は愛知...

高知県士族九名に襲われた岩倉具視はいかにして難を逃れることができたのか

以前このブログで征韓論争のことを書いた。当時の李氏朝鮮は「鎖国攘夷政策」をとっており、当時国王の生父大院君が実権を掌握していたのだが甚だしい欧米嫌いであり、先進文化の受容に努めていたわが国は欧米模倣であると罵られ「攘夷」の対象であった。しかしながら国力に乏しく、このまま鎖国を続けていればいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。明治政府はなんとか開国...

岸和田城周辺散策とだんじり祭り

久しぶりに岸和田に行ってきた。上の画像は大阪府史跡の岸和田城跡(岸和田市岸城(きしき)町9-1)。岸和田城は、秀吉の紀州攻めの拠点とするために急ごしらえで築城されたが、その後城主となった小出秀政が慶長二年(1597年)に五層の天守閣を建てている。しかしながら文政十年(1827年)に落雷のため焼失してしまい、以降再建されないまま、明治四年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却されてしまった。現在の建物は昭和二十九年(1954...

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』7月書店配本リストのご案内

いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。初めての著書の販売が開始されて3か月になりました。無名の著者でもあるので店頭に本を置いて頂いたのは全国でわずかの店舗だけで、しかもほとんどの店舗で1冊置いて頂いただけだったので、内容を書店で確認したくても、かなわなかった方がたくさんおられたことと思います。本を購入される場合は、書店で現物を見てから買われる方が多いと思うのですが、多くの方にご不便をお...

種子島に鉄砲が伝来した記録を読む

薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に著した『鐡炮記(てっぽうき)』という書物に、種子島に鉄砲が伝来した経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が記されている。この『鐡炮記』は、原文と現代語訳が電子書籍化(Kindle版 )されているので、誰でも容易に入手することが出来る。 天文十二年(1543年)八月二十五日に種子島に中国船が漂着し、その中にポルトガルの商人が乗っていて鉄砲などの商品を積んでいたのである...

新しいブログ立ち上げのご案内と今後の本ブログの運営について

いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。新しいブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」の立ち上げについてプロフィールにも書いていますが、日本史のブログを始めてから10年近くなりました。今年1月にサラリーマン生活も終え、ドメインを取得して新しいブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」というサイトを立ち上げ、原稿の仕込みを行っているところです。https://shibayan1954.com/新ブログの記事の蓄積はまだわずか...

日露戦争の巨額の戦費を外債発行で調達した明治政府と高橋是清の苦労

帝国書院のホームページに、戦争別戦費の一覧表が出ている。日清戦争の戦費は2.3億円であったが、日露戦争では18.3億円もかかっている。https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index06.html【戦争別経費:帝国書院HPより】もっとも、戦費がいくら必要かは戦争が終結するまではわかるものではないのだが、日露戦争当時の明治政府の歳入規模を調べると、明治三十七年(1904)の数字は3.3億円であった。菊池寛の『...

リリエンタールやライト兄弟より前に動力付き飛行機の模型を飛ばした二宮忠八

二宮忠八は慶応二年(1866年)に伊予国宇和郡八幡浜(現愛媛県八幡浜市)の商家の四男坊として生まれたが、忠八が八歳の時に父が失明して二宮家の収入は激減する。忠八は幼い時から凧張りの内職をしてわずかの資金を得ながら勉強に励んだという。彼には工夫の才があり、凧張りといってもいろんな凧を考案し、「忠八凧」は村の人々の評判となっていったそうだ。関猛 著『二宮忠八伝』に、忠八が子供の頃に考えた凧の絵が紹介されている...

桜の咲く時期に盛岡を訪ねて~~報恩寺、石割桜、盛岡城跡、盛岡八幡宮、らかん公園

岩手旅行の三日目は盛岡に向かった。最初の目的地は報恩寺(盛岡市那須川町31-5)である。報恩寺は応永元年(1394年)に南部家13代の南部守行が、父親を含む先祖の菩提を弔うために現在の青森県三戸(さんのへ)町に開基したと伝えられるが、慶長六年(1601年)に南部氏の本拠が盛岡に移ることとなり、同年に報恩寺も三戸から現在地に移されたとのことである。上の画像は昭和五十三年(1978年)に建てられた山門だが、非常に立派なものである...

奥州市の正法寺、黒石寺、駒形神社から遠野市のふるさと村、福泉寺を訪ねて

岩手旅行の2日目に最初に訪れたのは、奥州市水沢黒石町にある正法寺(しょうほうじ)という曹洞宗の寺である。駐車場に着くと立派な惣門(国重文)がある。この門は寛文五年(1665年)に建てられたもので、寺院の四脚門としては岩手県最古のものだという。惣門を抜けて蛇紋岩の大きな石段を登っていくと、茅葺屋根では日本一大きいと言われる法堂(国重文)が眼前に迫って来る。間口は二十一間半(約29.6m)、奥行十二間半(約21m)、屋根の高...

桜の咲く季節に奥州平泉の中尊寺、毛越寺、達谷窟、巌美渓を訪ねて

伊丹空港からいわて花巻空港に行き、レンタカーを借りて岩手県を旅行してきた。最初に向かったのは中尊寺である。後三年の役(1083~87年)で清原氏が滅んだのち、藤原清衡は奥州平泉に拠点を移して奥羽を支配し、前九年の役(1051~1062年)から続いた奥羽の戦乱の犠牲者を弔うために、平泉に大規模な寺院の造営に着手した。清衡は長治2年(1105)に多宝寺を建立し、続いて釈迦堂、天治元年(1124年)には金色堂を建立し、大治元年(1126...

わが国ではじめて石油を製造した石坂周造の物語と、国産石油製造の重要性

わが国の石油消費量のほとんどは中東などから輸入されているが、わずかながらわが国でも秋田県や新潟県を中心に生産が行われており、国内生産量は2016年で55万キロリットルで国内消費量の0.13%にすぎないのだそうだ。しかしながらわが国で「石油」の存在に関する記録は、7世紀の天智天皇の時代にまで遡るというから驚きである。明治三十九年に出版された『北越資料 出雲崎』という書物に、越後石油発見の由来が記されている。「わ...

政府が欧風化を推進した文明開化の時代に、国産品を奨励した僧侶・佐田介石

技術進歩の激しい時代には、新技術をいち早く導入した者が、多くの人々の仕事を奪い取って失業させることになる。それはある程度やむを得ないものではあるのだが、その変化が激しすぎると各地で内乱が起こったりして治安が不安定となる。教科書などには何も記されていないのだが、明治政府の相次ぐ革新的な施策に反発していたのは武士だけでなく、農民や一般市民も同様であった。そのことは、このブログで何度も紹介している『新聞...

完成したばかりの巡洋艦『畝傍』が日本に向かう処女航海で行方不明となったこと

明治十九年(1886年)にフランスで建造された日本海軍軍艦の畝傍(うねび)は、当時としては最新式の巡洋艦で、十月に竣工したのち日本に向かうのだが、その途中で行方不明となってしまった。平田晋策著『新戦艦高千穂』という本を読むと、この畝傍という軍艦がいかに期待されていたかがよくわかる。「明治十九年。その頃の日本海軍は、実に貧弱な海軍だった。第一線に立って戦闘の出来る軍艦は、三千七百トンの海防艦『扶桑』(一代目)...

西洋流の立身出世主義教育を憂いた明治天皇と教育勅語

「文明開化」の名のもとに、明治初年のわが国で極端な欧化主義的な考え方が支配したことはこのブログで何度か書いてきた。わが国が近代国家として西欧の侵略主義に対抗するためには、西欧の技術や科学や文化などをそのまま取り込んで自分のものとして利用していくこともある程度は必要であったろう。しかしながら、昔からの伝統文化や風習などを否定して多くを破壊し、なんでもかんでも西洋のやり方をまねようとする政府のやり方に...

欧化主義者の伊藤博文に楯突いて鹿鳴館外交を終わらせた谷干城

明治政府が採用した欧化政策のなかで、最も極端であったのは鹿鳴館の舞踏会騒ぎであった。明治十六年八月に伊藤博文がヨーロッパ諸国の諸制度を調べる外遊から帰国すると、十八年に太政官制度を廃止して内閣制度を創設したのを手始めに、制度万般のヨーロッパ化を図ろうとし、また、自ら内閣総理大臣となり、当時最大の外交問題であった条約改正を解決しようと、井上馨を外務大臣に据えた。この二人がこの問題解決の為に考えたこと...

初めての著書の配本書店リストとその他入手方法について

いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。先日、初めての著書が4月1日に販売が開始されることになったことをお伝えしましたが、無名の著者でもあるので、店頭に並ぶのは全国で109の書店だけで、大型書店でも並ぶのはほとんどの店舗で1冊となります。売れた後の在庫補充はそれぞれの店舗の裁量となります。本を購入される場合は、書店で現物を見てから買われる方が多いと思うのですが、多くの方にご不便をおかけし...

暦を太陽暦に急に変えたことに対する国民の反応と、政府が改暦を強行した経緯

明治の文明開化のことをいろいろ書いてきたが、太陽暦を採用した頃のことを調べてみると、政府があまりにも性急に太陽暦に変更したことに驚いてしまった。明治政府が太政官布告第三百三十七号『太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス』を出した日付は明治五年(1872)十一月九日なのだが、それによると「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とあり、わずか二十四日後から年が変わって太陽暦の正月になることを急に発表したのであ...

はじめての著書出版の御案内

いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。今年の新年のご挨拶で少し触れておきましたが、私がこのブログで書いてきた記事の一部を1冊の本に書きまとめ、4月1日から大型書店などで販売が開始されることになりました。もちろんアマゾンや楽天などのネットショップでも購入することが可能です。タイトル:『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』著者:しばやん出版社:文芸社価格:1500円+消費税3...

郵便事業を創始した前島密は飛脚屋の失業対策まで考え抜いていた

前回記事で明治時代の電信業の始まりの苦労について書いたが、今回は郵便の事について書くことにしたい。政府による郵便事業が始まったのは明治三年(1870年)のことなのだが、それ以前に信書はいかなる方法で運ばれていたのだろうか。【東海道五拾三次 平塚 安藤広重画】石井研堂の著書にはこのように解説されている。「…不完全ながらも、全国中重(おも)なる都邑には、飛脚屋の設けあり。各所の飛脚屋互いに気脈を通じ、私に信書...

電信工事に対する民衆の妨害活動や流言飛語に手を焼いた明治政府

前回の記事で、嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人が子どものように喜んだことを書いたが、ペリーは同時に電信機のデモンストレーションをも実施している。その時の日本人の反応について、ペリーの記録にはこう書かれている。「…電信装置は真っすぐに、約1哩*張り渡された。一端は条約館に、一端は明らかにその目的のために設けられた一つの建物にあった。両端にいる...

反対勢力との戦いに孤軍奮闘し、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信

嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの記録に残されている。「小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子ども...

大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情

森有禮(もり ありのり)は弘化四年(1847年)に薩摩国鹿児島城下に生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所で英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに渡っている。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治維新後に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。【森有禮】森有禮...

鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた

前回の記事で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するために、明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治16年(1883年)11月28日に落成した建物であるのだが、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞すことになる。【尾崎行雄】鹿鳴館外交を批判し...

極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか

文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国に...

『文明開化』施策という極端な欧化主義政策と日本の伝統文化破壊

前回の記事で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。『文明開化』の時代に、政府は日本土着の習俗や信仰などを「悪弊」「旧習」と呼び、彼らが無用無益と判断したものはどんどん破壊していったというのだが、同様なことを書いている本はいくらでも見つけることが出来る。例えば、歴史学者・斎藤隆三の著書にはこう記されている。「明治...

『文明開化』で旧来の制度や習慣を西洋化しようとした政府と、それに抵抗した人々

【丁髷(ちょんまげ)を嘲笑した外国人】かつて日本男児にとって丁髷はかけがえのないものであったと思うのだが、外国人にとっては非常に滑稽なものとして目に映ったようである。前回記事で紹介した石井研堂著『明治事物起源』に、旧幕臣であった澤太郎左衛門のオランダ留学体験談が紹介されている。「文久二年九月、開陽丸の注文と留学のために、榎本釜次郎、澤太郎左衛門、内田恒次郎等、オランダ国に渡る。当時、頭様も野郎あたま...

『文明開化』における新旧風俗の大混乱

前回の記事で、戊辰戦争が一段落したあと大倉喜八郎が、これからはわが国で洋服の需要が急速に高まることを予見してイギリスの羅紗工場を私費で視察したことを書いたが、喜八郎が予見した通りにわが国に西洋の衣料品が急速に広まっていった。【急激な洋装の普及】それまでの日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化したのが明治の初期である。それまでの和装のままでも生...

大倉喜八郎が事業を発展させたきっかけと、儲けた金の使い方

前回の記事で大倉喜八郎は幕府の動きや黒船を観て、これから内乱が起きることを直感し、乾物商を止めて武器商に鞍替えして大稼ぎしたことを書いた。ところが戊辰戦争が終わると、喜八郎はこれからしばらくわが国で戦争が起こることはなく、このまま鉄砲店を続けても駄目だと考えたという。そしてこれからは、外国との貿易が盛んになるとともに、わが国で洋服が必要になると考えて、日本橋本町に洋服裁縫店を開き、横浜に内外貿易店...

大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯

明治期に大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎は、天保八年(1837年)越後国新発田の質屋の五人兄弟の四番目の子として生まれ、幼名を鶴吉といった。生家は商家とはいえ、帯刀が許され殿様に拝謁することが出来たというから格式のあるなかなかの家柄であったのだが、十七歳の時に父を失い、翌年には母を失ってしまう。やがては家を出て身を立てねばならぬことは周囲から言い聞かされて、本人もその自覚があったのであろうが、鶴吉は、十八...

2019年新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。【椿自然園 阿南市】旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことに有難うございました。多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。【旧青木家那須別邸 那須塩原市】何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログ...

明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション

前回の記事で藤田伝三郎が西南戦争を機に大儲けしたことを書いたが、大多数の国民はこの戦争のために大なり小なりの犠牲を払っているのに対して、暴利を得た藤田組に非難の声が高まっていった。【藤田組の悪い噂を流したのは誰か】前回紹介した白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』にはこう解説されている。「この非難の声につれて先ず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争がす...

奇兵隊に参加し失明した藤田伝三郎が大富豪となるきっかけとなった人物との出会い

前回の記事で、長州の豪商白石正一郎が奇兵隊のために巨額の私財を投じて、維新成就後に事業を倒産させたことを書いた。その一方で、奇兵隊から明治の大富豪になりあがった人物がいる。藤田財閥の創立者である藤田伝三郎である。【藤田伝三郎】【奇兵隊脱退と失明】藤田伝三郎は天保12年(1841)に長州藩・萩の酒屋の四男として生まれ、文久3年(1863)に白石正一郎邸で奇兵隊が結成されると伝三郎も参加したのだが、元治元年(1864)の...

攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか

はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。【薩摩天保】以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記...

日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4

河野浦の北前船主の館・右近家の旧本宅の庭園に、なぜか砲弾が置かれている。ガイドさんの説明によると、右近権左衛門が所有していた「福井丸」が日露戦争の旅順港閉塞作戦の二回目の作戦で使用され、その船を指揮していた広瀬武夫少佐がその船で戦死したことと関係があるという。旅順港閉塞作戦のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でその話を読んだ記憶があるが、北前船主の館・右近家でその話が出て来るとは思わなかった。右近家...

瀧谷寺から越前海岸の景勝地と北前船で栄えた河野浦を訪ねて~~越前の歴史散策3

翌朝、お世話になった三国の民宿をチェックアウトし、近くの東尋坊に向かう。東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、最も高いところで約25mの垂直の崖があるという。これほどの規模のものは世界的にも珍しく、国の天然記念物に指定されている。朝早くここを訪れたのは初めてだが、商店などの営業が始まる前は観光客もわずかで、静かに景観を楽しむには良い時間帯である。東尋坊の景観を楽しんだ後に、瀧谷寺(たきだんじ:...

継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2

昼食のあと福井市の足羽山(あすわやま)に向かう。前回の記事で越前和紙の歴史は、第26代の継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として越前を治めていたころから始まることを書いたが、足羽山には継体天皇にまつわる神社などがある。『日本書紀 巻十七』には継体天皇の出自に関して次のように記されている。文中の男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は継体天皇のことである。「男大迹天皇――またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)――は、応...

越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行...

明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったよう...

明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊

慶応四年(1868)三月十四日に、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である、五箇条の御誓文を神前に奉読されている。一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。いつの時代にせよこのよ...

甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2

甲賀流忍術屋敷を楽しんだのち、油日(あぶらひ)神社(甲賀市甲賀町油日1042 ☏ 0748-88-2106)に向かう。この神社は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に、陽成天皇の元慶元年(877)に従五位下の神階を授けられたとの記録が残されている古社で、神社の東に聳える油日岳をご神体とし、油の神様として崇敬を集めてきたばかりではなく、「甲賀の総社」として甲賀武士の結束の中心であったという。両脇に石垣が積まれた参道を進むと...

現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1

滋賀県の甲賀と言えば「忍びの里」を思い浮かべる程度だったのだが、調べてみるとこの地域には貴重な文化財や伝統文化が残されているのに興味を覚えて、週末に日帰りで甲賀市の名所旧跡を巡って来た。最初に訪れたのは『甲賀流忍術屋敷』(甲賀市甲南町竜法師2331 ☏0748-86-2179)で、この住居は甲賀忍者であった望月出雲守の旧宅であり、現存する唯一の忍術屋敷だという。外見は一般的な平屋の日本建築で元禄時代に建てられた住居...

わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した

前回の記事で大規模な山の崩壊や地盤の崩壊で津波が発生し得ることを書いたが、今回はその事例について記すことと致したい。島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドー...

平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震

元暦2年(1185)3月に壇ノ浦の戦いで栄華を誇った平家は滅亡したのだが、それから約4か月後の7月に大地震が発生している。この地震は元暦年間に発生したので「元暦地震」と呼ぶ研究者もいるが、この地震の被害があまりに大きかったので翌月に「文治」と改元されたことから「文治地震」と呼ばれることが一般的だという。中世の日本においては、地震や疫病流行で改元されることが良くあったようだ。この地震に関しては様々な記録が残さ...

戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。上の画...

敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」

以前このブログで「軍部が情報を握りつぶした『昭和東南海地震』」という記事を書いた。この地震は昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に起きた、和歌山県新宮市付近を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震のあと津波が発生し、全国で死亡・行方不明者は1223名、壊れた家屋が57千戸以上とされる大災害であったのだが、この情報が漏れることを恐れた軍部が情報を統制したため、詳しい記録が残されていないという。http://shibayan19...