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しばやんの日々

尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後

前回の記事で、北林トモの供述に基づき宮城与徳が逮捕されたのち、宮城は仲間のこと等について固く口を閉ざしていたことを書いた。では何がきっかけで、宮城が供述を始めることになったのか。 宮下氏の著書にはこう書かれている。「で、宮城は取調べで、スパイであることは認めざるを得なかったのだが、しかし仲間については口を割らない。言わなければならないときは死のうと申し合わせをしていた、とあとになって言っていたが、...

特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

前回まで3回にわたって、宮下弘氏の『特高の回想』の文章を引用しながら、ゾルゲ事件について書いてきた。この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていた点にあるのではないか。よくよく考えると、戦後のマスコミや教育界・出版界・学会を長らく...

特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党

前回記事の最後に、昭和8年(1933)の12月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件で日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の2名がリンチに遭い、翌日に小畑が死亡したのだが、この二人が仲間から暴行を受けた理由は「特高のスパイ行為を働いた」というものであった。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-283.html『特高の回想...

軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織

すこし前にゾルゲ事件で主謀者が検挙されたことをこのブログで2回に分けて書いたが、その話に戻そう。ゾルゲや尾崎が捕まったといっても、ソ連の工作ルートは世界に拡がっていて、その一部が解明されたに過ぎなった。宮下氏は中国共産党につながる諜報ルートが恐らく別にあって、それを解明する必要があると考えていたようだ。しばらく宮下氏の文章を引用する。「尾崎秀実の取調べで、周辺の一人ひとりについてくわしい説明を求め...

『ポツダム宣言』を受諾したわが国は、連合国に「無条件降伏」したのか

1945年8月14日、日本国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、9月2日に降伏文書に調印した。 学生時代には「太平洋戦争はわが国が連合国に無条件で降伏した」と学んだ記憶があるし、テレビの解説などで「無条件降伏」という言葉を何度も聞いたと思うのだが、最近のわが国の高校教科書ではそう書かれていないことに気がついた。例えば『もういちど読む山川日本史』では、 「8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天...

『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2

前回の記事で、『ポツダム宣言』がわが国に対し戦争を終結させるための条件を提示した文書である事を書いた。 実はこの『ポツダム宣言』が公表される前に、連合国側がわが国に提示しようとしていた天皇制維持に関する重要な部分が削除されたことを最近知った。しばらく鳥居民氏の解説を引用する。「ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた...

原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か~~ポツダム宣言3

前回の記事で、『ポツダム宣言』が出た直後のわが国の反応について書いた。この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかない...

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4

以前このブログで、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を紹介した。 「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、(1) 自国政府の敗北を助成すること(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること(3) 民主的な方法による...

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5

前々回の記事で、昭和3年(1928)5月24日付のプラウダ (ソ連共産党機関紙)に、日本の陸海軍の軍人に対し「諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と書いていることを紹介した。このような記事がプラウダに掲載されていたということは、昭和初期には日本軍人の中に、ソ連の共産主義に共鳴するメンバーが少なからずいたと考えるべ...

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6

このシリーズの3回目に、昭和天皇の御聖断でわが国が『ポツダム宣言』を受諾することが決まった経緯について書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-292.htmlしかしながら、わが国はこの御聖断によりすんなりと終戦に向かったのではなかったのだ。今回は、昭和天皇の二度にわたる御聖断とその後の動きについて、寺崎英成ら昭和天皇の側近が昭和21年の3月から4月にかけて天皇から直々に聞きまとめたとされる記録(...

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7

前回の記事で、阿南陸相の義弟である竹下中佐らが、陸軍大臣らの許可を得て兵力を使用し、昭和天皇および和平派を軟禁拘束して、玉音放送を妨害して戦争継続の方向に導くことを計画したことを書いた。この計画に賛同するメンバーは決して少数ではなかった。森 赳(たけし)近衛師団長は蹶起することに反対していたが、近衛師団参謀長の水谷一生、参謀の古賀秀正、石原貞吉も、竹下中佐らの仲間に入ることを約束していた。古賀は東条...

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8

前回および前々回の記事で、8月14日の御前会議で『ポツダム宣言』を受諾し戦争を終結させることが決定したのだが、陸軍のエリート将校たちは昭和天皇による『玉音放送』を阻止して、戦争の継続に導こうとするクーデターを起こしたことを書いた。(宮城事件)彼らはクーデターに反対した近衛第一師団長森赳(たけし)中将と森の義弟の白石通教(みちのり)第二総軍参謀長を殺害し、師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居...

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国の敗戦を機に、陸軍主導で共産主義革命を起こそうとしたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。一番わかりやすいのは、関東軍だろう。以前このブログで、関東軍が独断で実行したことになっている昭和3...

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、国内でこれだけ激しく意見の対立があったのは、この『ポツダム宣言』の内容が、連合国とわが国が戦争を終結するための条件を呈示したものでものであったからとも言える。このシリーズの最初の記事で『ポツダム宣言』に書かれている内容を紹介したが、この宣言で、連合国はわが国に対して、条件付きで戦争を終結させようと提案してきたのである。http://shi...

アメリカは当初、京都を原爆投下の第一のターゲットにしていた

私は京都に生まれて京都で育ったが、子供の頃に何度となく「京都の文化遺産を守るために、アメリカは京都の空襲を控えた」という話を聞かされていて、単純にそう信じていた。しかし、ネットでいろいろ調べると、京都でも昭和20年(1945)に何度かアメリカ軍による無差別爆撃がなされていることがわかる。ネットでは諸説があり、あるサイトでは空襲回数は合計20回を超え、死者302人、負傷者561人と書いているのだが、残念ながらそのサ...

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった

8月8日付の産経新聞にこんな記事が掲載されていた。「ロシアが、米国による広島、長崎への原子爆弾投下を『犯罪』として糾弾する動きを強めている。米国を唯一の『非人道的な使用国』と宣伝することで自国の核保有を正当化し、さらに日米の分断を図る思惑が見える。『米国の原爆でなく、ソ連の対日戦争こそが第二次世界大戦を終結させた』と主張し、日ソ中立条約を破った事実をかき消そうとする論調も目立つ。 プーチン露大統領に...

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む

今までこのブログで何度か紹介してきた、種村佐孝という人物についてWikipediaではこう解説されている。「太平洋戦争(大東亜戦争)中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった『第7006俘虜収容所』にて、共産主義革命...

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える

前回の記事で、わが国の終戦工作を担当した陸軍大佐がひどくソ連寄りであったことを書いたのだが、ではなぜ、わが国の軍隊の中枢部に共産主義思想の持ち主が入り込むことを水際で阻止できなかったのかと誰でも思う。以前このブログで、尾崎秀実を取り調べた特高の宮下弘氏の著書『特高の回想』を紹介したことがある。その宮下氏が右翼担当であった時に、皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れたことがあり、その時に真崎が宮下氏に語った...

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか

前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するた...

日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む

前回は、ソ連が如何にしてわが国や世界に共産主義を拡げていったかについて書いたのだが、読者の中には、「軍国主義」を礼賛したような時代のわが国の新聞に書かれている記事を紹介されても、その内容そのものが信用できないという方もおられるだろう。そこで今回は、当時の日本共産党が軍部に対してどのような文書を拡散していたかを紹介したい。昭和7年(1932)9月1日に日本共産党が対軍工作の為に出した『兵士諸君に与ふ』という...

なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む

高校で日中戦争を学んだ時に、わが国がなぜ戦争に巻き込まれのかが理解できなかったのだが、最近の教科書ではどう書かれているのかと思って『もう一度読む 山川の日本史』を読み直してみる。そこにはこう記されている。「日本はしだいに中国北部にも勢力を伸ばし、この地方の軍閥に力を貸して、国民政府の影響から切り離そうとした。そのころ中国では、国民政府と共産党の内戦が続いていたが、1936(昭和11)年に張学良が蒋介石を監...

南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか

前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸...

日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか

前回の記事で、蒋介石は上海戦に続く南京戦に勝算がないことは承知しており、南京陥落の後に日本軍の暴行を世界に宣伝し、武力戦で負けても宣伝戦で勝つという国策に立っていたことを書いた。蒋介石総統および政府・軍部の首脳は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡したのだが、これも予定の行動であったと思われる。というのは、無責任にも南京から逃亡した唐生智は、その後栄転して中国国民党...

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。し...

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか

前回の記事で柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』という本を紹介した。この本には、第一次近衛内閣の時にわが国が日中戦争に巻き込まれ、さらに本格的な臨戦態勢が打ち出されて全体主義的統一国家へと変貌していったのだが、それを推進したのは近衛が集めたブレーン・グループで、その一部は尾崎秀実のようにソ連・コミンテルンに繋がっていて、彼らはわが国を敗戦に導くことによって一挙に共産主義革命を実現する考えであったとい...

アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1

京都にいる親しい友人から、近所に「キスカ島撤退作戦」を体験した中村さんという方がおられるとの情報が入り、その方の話を友人と一緒に聞くことになった。中村さんは大正14年(1925)のお生まれで91歳という高齢ではあるが、大変お元気で、言葉もしっかりしておられたのに驚いた。2時間近くお話を伺ったが、私にとってはこんなに長時間にわたって戦争の体験談を直接聞いたのは初めての経験で、いろいろ勉強になることが多かった。...

ミッドウェー海戦大敗後、キスカ島上陸に意味はあったのか~~『キスカ戦記』を読む2

アリューシャン列島の西部にあるキスカ島、アッツ島等の攻略はミッドウェー作戦と同時に行われた。キスカ上陸作戦の前に、第二機動部隊によるダッチハーバー航空攻撃が昭和17年6月4・5日に行われ、日本軍は七機を失ったが、米軍の哨戒飛行艇PBY六機、陸軍重爆B26、B17三機、P40戦闘機二機を葬っている。しかしながら、前回の記事の最後に触れたとおり米軍は日本軍の暗号電文を解読しており、アリューシャン方面には最低限の戦力を...

キスカ上陸後、すぐに米軍の反撃が始まった~~『キスカ戦記』を読む3

前回は昭和17年(1942)6月7日に日本軍がキスカ島に無血上陸したことを書いたが、米兵がいなかったわけではなかった。上陸後2名がすぐに捕まり、残りの8名も大浜海岸に投降してきて捕虜としたが、全員戦意はなかったという。上陸したのち、すぐに機材の陸揚げがはじまったのだが、これが大変だったようだ。海軍大尉の柿崎誠一氏の手記によると、「揚陸海岸はたちまち物資の山となり、それを内陸に運ぼうにも湿地のため堅固な道路を開...

補給に苦しみながら敵の上陸を許さなかったキスカ島の兵士たち…『キスカ戦記』を読む4

キスカ島の防衛のためには、航空戦力が不可欠であることぐらいはわかっていたはずなのだが、わが国には航空部隊や航空機を北方に差し向ける余裕はなかった。米国はアムチトカ島に航空基地を完成させると、それ以降米軍機によるキスカ島への空襲が激しさを増すことになる。『キスカ戦記』にはこう解説されている。「キスカ在舶艦船を主な攻撃目標にしていた米航空機は、在舶艦船がいなくなり、わが航空兵力が逼塞すると見るや、対空...

潜水艦によるキスカ島守備隊撤収が途中で中止された理由…『キスカ戦記』を読む5

前回の記事で書いた通り5月20日にキスカ守備隊の撤退が決定し、翌日に陸海軍中央協定で、キスカ島の撤収につき次のように定められたという。「鳴神(キスカ)島守備隊は成るべく速やかに主として潜水艦に依り逐次撤収に努む。尚海霧の状況、敵情等を見極めたる上状況により輸送船、駆逐艦を併用することあり。」そしてこの撤収作戦は「ケ号」作戦と名付けられたという。『キスカ戦記』の解説にはこう記されている。文中の幌筵(ほろむ...

キスカ島を目前にして撤収部隊は北千島に引き返していった……『キスカ戦記』を読む6

前回の記事で、潜水艦によるキスカ守備隊の撤退は効率が悪い上に3隻もの貴重な潜水艦を失ってしまったため、水上艦艇による一挙撤収に方針が変更されることとなったのだが、この作戦が成功するためには、キスカ島周辺に視界がゼロに近い濃霧が発生することと、艦隊にレーダー装備が必要であったことを書いた。『キスカ戦記』の解説にはこう記されている。文中の「電探」とは、「電波探信儀」の略語で、「レーダー」のことである。...

キスカ守備隊員の手記による奇跡の完全無血撤退作戦成功……『キスカ戦記』を読む7

前回の記事で、キスカ島守備隊の兵士たちは7月11日から14日まで4回もキスカ湾に集結して撤収部隊の到着を待ったのだが、一度もその艦影を見ないままに作戦の一時中止が伝えられ、艦隊は燃料補給の為に反転して北千島に帰っていったことを書いた。撤収部隊がキスカ島に接近していながらキスカ湾への突入を断念したのは、途中で霧が晴れたために空襲に遭う危険性が高まったことがその理由だが、もし霧が深かったとしても、霧を見通す...

艦隊乗艦員の手記によるキスカ島守備隊撤退作戦……『キスカ戦記』を読む8

前回はキスカ島守備隊の兵士たちの手記を中心に紹介したが、今回は守備隊撤収のためにキスカ湾に突入した艦隊乗艦員の手記を紹介することにしよう。第1回目は、「6月25日、キスカは霧」という艦隊気象長の天気予報を信頼して、6月22日に全艦隊が北千島にある幌筵(ほろむしろ)を出撃したのだが、幌筵からキスカ島までは直線距離で1500kmも離れている。気象衛星など最新機器を用いた今日の天気予報でも、数日先の天気などはあまり当...

無人のキスカ島に上陸した米軍に多くの死傷者が出た事情……『キスカ戦記』を読む9

昭和18年7月29日、濃霧の中でキスカ島守備隊の撤収作戦が敢行され、艦隊は守備隊5183名全員を収容後キスカ湾を全速で離脱し、その後も深い霧に包まれて無事に空襲圏外に無事に脱出して、7月31日から8月1日にかけて北千島の幌筵(ほろむしろ)に全艦無事に帰投している。一方、米軍はキスカ島守備隊が撤退したことを把握していなかった。前回記事にも書いたが、7月27日の夜に米艦隊が、レーダーの誤反応を日本艦隊と見間違え、濃霧の...

日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国

日露戦争でロシアに勝利した5年後の明治43年(1910)にわが国は韓国を併合したのだが、この経緯について一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』にはこのように記されている。「日露戦争のおわりごろ、三民主義をとなえる孫文を指導者として、清朝打倒の革命をめざす中国同盟会が東京で発足したことに象徴されるように、それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。 しかし日本は、列強の植民地政策を...

なぜ韓国はいつまでたっても「反日」をやめられないのか

前回の記事でわが国政府や民間企業が、朝鮮半島の近代化のために莫大な投資を行ってきたことを書いた。そして敗戦後、わが国はこれらの投資に対する一切の請求権を放棄させられた上に巨額の資金支援を要求されることになったのだが、普通に考えれば、戦勝国でもない韓国がわが国に対して賠償請求できるとは思えないし、また、わが国が朝鮮半島に残した資産の対価を一切請求できないということもおかしなことである。わが国では、両...

わが国はどういう経緯で朝鮮半島を統治することになったのか

前回の記事で、第二次大戦後に韓国が、朝鮮半島に残したわが国の資産を没収したうえで巨額の賠償金を得ることを可能にするためには、わが国の統治がよほど酷かったという歴史を描いて交渉するしかなかったということを書いた。韓国は、戦勝国が描いた「日本だけが悪かったとする歴史」に飛び付いたのだが、わが国を貶める目的で描かれた歴史叙述の殆んどは虚偽であり、鵜呑みすべきでないことは言うまでもない。では実際の歴史はど...

日露戦争の頃から日本軍に好意を示した韓国民衆がかなり存在した

前回の記事で、わが国が日清戦争で勝利して清国勢力を朝鮮半島から追い出すと、今度はロシアが介入してきたのでわが国は日露戦争を戦って勝利し、ロシア勢力を朝鮮半島から排除したことを書いた。わが国は韓国を近代化させるために保護国化したのだが、その点について、アメリカやイギリスは干渉しなかったことは重要なポイントである。もしこのような大国の干渉があれば、今までと同様にこの国は強いと思った国に靡いていたことで...

日露戦争後に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最近朝鮮事情』を読む

前回の記事で、この時期に朝鮮半島を訪れたイザベラ・バードが、この国には内部からみずからを改革する能力がなく、外部からの改革が必要であると書いたことや、米国も英国も日露戦争の後で韓国に関与するつもりはなく、日本が保護国とすることを希望していたことを書いた。ではこの時期に朝鮮半島を訪れた日本人の記録はないのだろうかと思って探してみると、当時衆議院議員であった荒川五郎氏が朝鮮半島を訪れてレポートした、『...

長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話

シベリアの抑留を体験し、帰国後に全国抑留者補償協議会を結成し、ソ連政府と直接交渉を重ねて抑留死亡者名簿の引渡しや墓参の自由化を実現させた斎藤六郎氏が、何度かロシア公文書館を訪れて関東軍に関する重要書類の大量のコピーを我が国に持ち帰っている。ロシア公文書館には旧ソ連軍が持ち去った関東軍の機密文書が大切に保管されていたようだ。その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「...

コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか

1917年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、その後しばらくは混乱が続いている。一般的な教科書にはこう解説されている。「パリ講和会議の開催中、日・米・英・仏の4ヵ国はそれぞれソヴィエト領内に出兵し、干渉戦争(1918~22年)を戦っていた。またソ連国内の反革命派も反乱にたちあがり、革命政府は一時苦境におちいった。しかし外国の干渉はかえってロシア国民の愛国心を高め、政府は赤軍を増強して反撃...

尼港事件の大惨事を教科書やマスコミはなぜ伝えないのか

前回の記事で、ソ連が「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行い、西欧諸国の共産化が失敗した後は工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにされていたことが、戦前のわが国の新聞記事で具体的な事例を多数確認できることを紹介した。前回は昭和3年(1928)以降のわが国に対する工作活動を中心に記事に書いたが、そればかりではなく極東における「世...

関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった

以前このブログで、昭和3年(1928)6月4日の「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」の事を2回に分けて書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.htmlhttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.htmlわが国の教科書では今も日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したと書かれているのだが、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪...

関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であること...

満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

「満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が清(しん)である。清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわか...

関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。【溥儀】この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。「しかし、軍事・外交は...

リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか

前回の記事のなかで、昭和6年(1931)9月の満州事変以降関東軍が満州全土を占領した頃の世界には、わが国に理解を示す論調が少なからずあったことを述べた。その翌年3月に満州国が成立し、わが国は「国際的な非難をあびた」と教科書などで記されているのだが、このように書かれる根拠はその後の国際連盟の動きにあると思われる。わが国が国際連盟を脱退した経緯について、『もういちど読む 山川の日本史』では次のように記されて...

満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州は満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人...

満州に関東軍が駐留していた背景を考える

教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州に関東軍がいたかについて一言も触れることがない。黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍が満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。「ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権...

満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件から始まった満州事変で、30~40万いたとされる張学良軍は、およそ1万の関東軍によって総崩れとなって満州から駆逐されてしまったのだが、彼らは圧倒的に兵士の数では関東軍よりも優位にあっただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。Wikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である...