伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと

前回の記事の最後に、おはらい町のなかに国の重要文化財に指定されている建物があることを書いたが、この建物の名前は「神宮祭主職舎本館」といい、明治の廃仏毀釈の時に廃寺となった「慶光院」という尼寺の境内地と建物を伊勢神宮が買い取り、明治5年(1872)に神宮司庁の庁舎となり、明治23年(1890)に神宮祭主職舎となって今日に至ったものである。
伊勢神宮の御膝元である伊勢国(三重県)で廃仏毀釈が相当激しかったことは最近知った。Wikipediaでは100ヶ所以上の寺院が明治初期に廃寺になったと書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、伊勢の廃仏毀釈に関する記述のある本を捜していたところ、大正13年に出版された利井興隆氏の『祖国を憶ひて』という書籍に、こんな記述があるのを見つけて驚いてしまった。(原文は旧字旧かな)
「伊勢の内宮外宮に寺が189、尼寺が21あって寛文11年(1671)11月14日に焼失しました。大神宮と仏教との関係の深いことはこの一事をもっても知られます。しかるにその後、山田の奉行桑山下野守はこれが再建を禁じました。仏教排斥の意味をそこに見ることが出来ます。」(『祖国を憶ひて』p.38)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981991/24
伊勢神宮の御膝元で何度か大火があったようだが、この地域にこんなに多くの寺があったというのは知らなかった。

『近代デジタルライブラリー』でさらに関連書籍を捜すと、大正14年の羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という書籍が見つかった。この本には極めて興味深いことが具体的に書かれている。しばらく引用させていただく。(原文は旧字旧かな)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/84
「明治初年に、伊勢国山田に、度会府(わたらいふ)を置き、旧公家橋本實梁(さねやな)を、府知事に任ぜられた。同地宮川と五十鈴川との中間地を、すべて川内と呼んだ。これ神宮の神領地域である。
その川内神領地に、天台、真言、禅、浄土等の、各宗寺院が、60余個寺あり、中にも外宮の神宮寺に常明寺、内宮の神宮寺に天覺寺、又天照皇山、大神宮寺というのがあった。同地は元神領にて、両神宮の所在地であるから、排仏思想者たる橋本知事には好都合の地であった。
ここに橋本知事は、神宮の神職と結託して、己が廃仏思想を実現せんとて、まず川内神領地において一切仏葬を禁止して、悉く神葬すべしと布令した。これ60余個寺の、檀徒を奪い去ったのである。
寺属の檀徒を前に奪いて、後に各寺住僧を呼び出し、今般当地方に於いて、一般、仏葬を禁じて悉く神葬することを布告したに就いて、最早(もはや)各寺とも、寺を維持する資料がない。ゆえに各寺院とも、住僧と檀徒総代と連署して廃寺願書を差出すとともに住僧は帰俗すべし。すなわち今廃寺を願い還俗*する者は、身分を士族に取扱いかつその寺院に属する。堂塔等の諸建造物、及び什器等、ことごとくみな、前住僧の所得に帰す。もし、この際、廃寺願書を呈せず猶予する者は、近く廃寺の官令降る時は、上記の物件、みな官没となる。ゆえによく利害得失を考え、一刻も早く、廃寺願書を呈出する方が、得策であろうと、説諭に及んだ。」(『仏教遭難史論』p.145-146)
*還俗(げんぞく):僧侶であることを捨て、俗人に戻ること
少し補足しておくと、「神宮寺」というのは、神仏習合思想にもとづいて神社に建てられた仏教寺院である。神社の境内に寺院がある事は今では考えにくいのだが、明治時代の初めまでは当たり前のことであったという。

明治の廃仏毀釈で仏師としての仕事がなくなり、その後西洋美術を学び彫刻家として活躍した高村光雲は『幕末維新懐古談』でこう述べている。
「これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。」とあり、廃仏毀釈以前は、神社と寺院施設の全体の管理を僧侶が行なっていたようなのだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html
伊勢神宮にも神宮寺があったというのは知らなかったのだが、いろいろ調べると伊勢神宮の「神宮寺」はかなり大規模な寺院であったようである。
寛政9年(1797)に出版された『伊勢参宮名所図会』という書籍に、外宮の神宮寺であった常明寺の絵が掲載されている。

この寺は、明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官を世襲した度会(わたらい)氏と関係が深く、毎年正月8日には外宮の神官が参向し、境内にある神落萱社(かんおとしかやしゃ)に於いて祭りを行い、寺僧も本堂で誦経をしたという。
次の地図で、常明寺門前道から常明寺、そして境内に金毘羅宮があったことを考慮すると、この寺の大きさがおおよそわかる。
http://homepage3.nifty.com/NFC/ise-meisyo3.htm.
また、次のURLの記事によると、現在、伊勢市内の「倭町(やまとまち)」と呼ばれる地名は、明治元年11月までは「常明寺門前町」と呼ばれていて、常明寺自体が明治2年2月に廃絶されると、近くにあった遊郭街も撤去されたという。そのURLには常明寺の跡地の画像も紹介されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/28192851.html
話を『仏教遭難史論』の記述に戻そう。
仏葬を禁じられ檀家を奪われては、普通の寺院としての収入は激減し、そのうち寺を維持するどころか生活すらできなくなることは誰でもわかる。
度会府の橋本知事は、着任してすぐに仏葬を禁止し、寺院が経済的に成り立たなくなるようにしてから、寺僧を集めて全員に廃寺を迫り、廃寺に応じで還俗したならば、寺の建物や什器の個人所有を認め、応じない場合はすべてを没収すると言明したのだ。
明治政府が全国の寺院を廃寺にせよと命令をしたわけではなかった。もし政府の命令であれば、各寺から「廃寺願書」を提出させる必要はなかったはずだ。
だからこそ橋本知事は、自らの信念である廃仏主義を伊勢神宮の神域で実現させるために、まず寺院の収入源を奪い取り、その上で寺院から廃寺願書を出させることにしたのである。
当時の知事は地元民から選ばれた者ではなく、明治政府が派遣した役人であり、廃仏の取組は地域によって、また知事の考え方によってかなりの差があったようだ。ちなみに、隣接の藩であった田丸藩の管内では、一つの寺院も廃寺とならなかったという。
『仏教遭難史論』によると、伊勢神宮の神領地域の寺院の内約50ヶ寺が、この時に廃寺願書を出したそうだ。
願書を出さなかった寺のうち、3ヶ寺は寺有田を持つなど、檀家からの収入がなくとも寺の維持が可能と判断したものだが、残りの約10寺院は、官憲の迫害に耐えかねて、すでに他国に出奔したか無住になっていた寺であったという。
橋本知事はその後も残された3ヶ寺に対し、様々な嫌がらせをしたのだが、興味のある方は『仏教遭難史論』の続きを覗いてみて頂きたい。この本には、日本各地で廃仏毀釈が激しかった地域の具体的な記録が満載である。
かくして、伊勢神宮の御膝元の神領地にあった寺院のほとんどが姿を消し、さらに橋本知事は仏像仏具類を公売することを禁止したために、それらの寺院にあった仏像などは大半が破壊されたか、危険を冒して闇で取引されたかのどちらかと考えて良い。
ただ欣浄寺という大きな寺院の宝物については本山の知恩院が引き上げたと書かれているが、このような例は少ないと思われる。

伊勢神宮の神宮寺にあったと伝えられる平安後期の作である釈迦如来立像が、広島県尾道市の生口島にある耕三寺(こうさんじ)の耕三寺博物館にあるのだそうだが、これはおそらく本物なのだろう。今では国の重要文化財に指定されている木造の仏像だが、外宮・内宮どちらの神宮寺にあったのか、どういう経緯で耕三寺にあるのかはよくわからない。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_kosanji.htm
こういう経緯を知ると、宮川と五十鈴川に挟まれた伊勢神宮の御膝元というべき地域に、江戸時代以前の建物で重要文化財が1件しか存在しないことが納得できる。その1件が、冒頭に触れた「慶光院」という尼寺である。次にこの尼寺のことを記しておきたい。
伊勢神宮の式年遷宮は20年に1度行なわれることになっているのだが、昨年に行われた内宮と外宮の遷宮がそれぞれ第62回目になるのだそうだ。
ところで、式年遷宮の制を制定したのが天武天皇14年(685)で、第1回の式年遷宮は内宮が持統天皇4年(690)、外宮が持統天皇6年(692)であることがわかっている。
しかし、それ以来ずっと20年に1回のルールを守っていたら、昨年の式年遷宮が第62回という数字にはならないことは計算すればすぐわかる。
Wikipediaに今までの式年遷宮の実施時期が纏められているが、応仁の乱から戦国時代にかけて、かなり長期間にわたり遷宮が行なわれなかった時代が存在する。
次のURLを見れば、外宮の第40回式年遷宮は永禄6年(1563)に129年ぶりに行われ、内宮の第41回式年遷宮は天正13年(1585)に123年ぶりに行われたことがわかる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE
この長期間に及ぶ遷宮の中断に終止符を打ったのがこの慶光院の尼僧であったのだ。
この経緯については伊勢神宮崇敬会が作成している季刊誌『みもすそ』49号の特集記事『式年遷宮と慶光院』が、非公開の建物の内部の写真まで掲載していてわかりやすい。
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/imgs_mimosuso/49.pdf
高野澄氏の『伊勢神宮の謎』(祥伝社黄金文庫)にもp71-82に慶光院の事が書かれている。
上記記事やWikipediaなどを参考に、慶光院と伊勢神宮とのかかわりについてまとめておこう。
応仁の乱以降のわが国は下剋上の乱世となり、伊勢神宮では厳しい経済事情から式年遷宮が行なえず、宇治橋の架け替えもままならないまま、あるとき宇治橋が洪水で流されてしまった。
このような痛ましい神宮の姿を見かねて、起ち上がったのが、慶光院の守悦(しゅえつ)という尼僧であった。
守悦は、宇治橋再建の為に諸国を勧進してまわって、浄財を集め、そして延徳三年(1491)についに宇治橋の架け替えを成し遂げている。
守悦から二代目の院主が清順であった。清順は遷宮の費用も勧進で行おうと考えたが、僧職にあるものが遷宮に携わるのは異例であるため、まずは実績を残すために、宇治橋架け替えのために諸国を勧進し、そして天文18年(1549)に宇治橋を架け替えている。
清順はその後、式年遷宮復活に向けて各所に働きかけを行ない、その思いは朝廷や幕府をも動かした。それまでは遷宮の費用は役夫工米の徴収によって調達されていたのだが、清順は諸国を勧進してその費用を集める方式を提案し、朝廷の承認を取り、清順は十年間諸国を巡った末に、ついに外宮の遷宮に必要な資金を調達し、かくして永禄6年(1563)に外宮の正遷宮が129年ぶりに行われたのである。
10年間にわたり浄財を集めたという努力もすごいことだが、いよいよ遷宮が近づくと清順は国司北畠具教の許可を得て、遷宮の1ヶ月の間、伊勢と近江の全ての関所をフリーパスにしたそうだ。そのことによって、多くの民衆が参拝に訪れ、遷宮は成功したという。
清順は宗教家としても、プランナーとしてもなかなかの才能の持ち主であったと思う。
外宮の遷宮を成し遂げた3年後に清順は没し、後を継いだ周養(しゅうよう)が清順の遺志を継いで内宮遷宮費用の勧進事業を進め、織田信長や豊臣秀吉の寄進を受けて、天正13年(1585)に内宮の正遷宮を123年ぶりに行ない、さらに外宮の正遷宮をも22年ぶりに執り行う事が出来たという。
その後慶光院は慶長8年(1603)と、寛永6年(1629)・慶安2年(1649)の正遷宮では江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されて神宮に協力したのだが、寛文6年(1666)に伊勢神宮から訴えがあり、以後は徳川幕府が直接に資金を支出して式年遷宮が行なわれたという。
伊勢神宮からすれば、神宮の神官でもない尼僧がいつまでも遷宮を取り仕切り、さらに、そのことで幕府や朝廷からの崇敬を受けていたことが気に入らなかったのではないだろうか。

慶光院は、以前は山田西河原(現在の伊勢市宮後)にあったのだそうだが、慶長年間に豊臣秀吉の命令で現在の場所に移ったという。江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されたくらいだから徳川家の信望も厚く、強力な支援者を得たことから慶光院は、これだけ立派な建物を内宮の近くに建てることが出来たのだろう。
慶光院の客殿は2002年に国の重要文化財に指定され、表門と勝手門は三重県の有形文化財に指定され、毎年11月ごろに3日間程度、一般公開されているようだ。

上の絵は『伊勢参宮名所図会』だが、右下の建物が慶光院で、その前を人々が歩いている通りが今の「おはらい町通り」すなわち「旧参宮通」である。
この版画には、通りに沿って不動堂や法楽舎という寺院も描かれている。法楽舎は真言密教の祈祷所で内宮だけでなく外宮にもあった施設だが、明治の廃仏毀釈で取り毀されたことは言うまでもない。不動堂も同様だろう。
廃仏毀釈については、たとえば一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.231)
などと書かれていて、廃仏毀釈は自然発生的に起こって明治政府は関与していなかったような叙述になっているが、国家権力の関与なくしてどうしてこれだけ多くの寺院を、短い期間で廃寺にすることが出来ようか。
明治新政府は国教をそれまでの仏教より神道に変え、天皇を支柱とする国民国家を目指し、皇室の宗廟たる伊勢神宮を国家祭祀の最高位の一つに位置づけようと考えたからこそ、伊勢神宮の御膝元の地である度会府に、筋金入りの廃仏論者を送り込んだのではなかったか。
もし伊勢の廃仏毀釈が、明治政府の意向を無視して度会府の橋本知事の独断で進められたのであるならば、すぐにこの知事が解任されてもおかしくないと思うのだが、橋本實梁は明治4年(1871)に統合再編成された新生の度会県が生まれると県令となり、明治17年には功を認められて伯爵の位を授けられているのである。
いつの時代もどこの国でも、「為政者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育やマスコミで広められ、「為政者にとって都合の悪い史実」が伏せられて人々の記憶から消えていく。
我々日本人は、幕末から明治の歴史について、いつの間にか「薩長閥にとって都合の良い」「キレイ事の歴史」に洗脳されてしまってはいないだろうか。
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