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しばやんの日々

京都のお寺に生まれたしばやんが通史とは異なる視点から日本の歴史に斬りこみます

満州に関東軍が駐留していた背景を考える

教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州に関東軍がいたかについて一言も触れることがない。黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍が満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。「ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権...

満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州は満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人...

リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか

前回の記事のなかで、昭和6年(1931)9月の満州事変以降関東軍が満州全土を占領した頃の世界には、わが国に理解を示す論調が少なからずあったことを述べた。その翌年3月に満州国が成立し、わが国は「国際的な非難をあびた」と教科書などで記されているのだが、このように書かれる根拠はその後の国際連盟の動きにあると思われる。わが国が国際連盟を脱退した経緯について、『もういちど読む 山川の日本史』では次のように記されて...

関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。【溥儀】この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。「しかし、軍事・外交は...

満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

「満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が清(しん)である。清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわか...

関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であること...

関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった

以前このブログで、昭和3年(1928)6月4日の「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」の事を2回に分けて書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.htmlhttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.htmlわが国の教科書では今も日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したと書かれているのだが、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪...

仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。「惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純...

日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎

竹生島から長浜港に戻って、ホテルにチェックインしたのち長浜市の中心部に向かう。この日(4月13日)の夕方は十三日番といって、長浜曳山祭の各山組に曳きだされた豪華絢爛な曳山の舞台で、化粧をした子ども役者が可憐に歌舞伎(曳山狂言)を演じる最初の日なのだ。この祭りは毎年4月9日~16日に長浜八幡宮の春季大祭にあわせて執行され、13日~16日は「曳山」が登場して子ども歌舞伎が演じられるのである。この祭りは京都の祇園祭、...

神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗

長浜市の湖岸から6kmほど先に、周囲2km、面積0.14㎢の竹生島が琵琶湖に浮かんでいる。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きな島で、ここに西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。この島へは、長浜港から琵琶湖汽船の船に乗って25分程度で到着するのだが、余程風の強い日には竹生島港に接近することが危険なためにたまに欠航することがあるのだそうだ。この日は風が強くて、竹生島港の波が強くて接近...

滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他

以前このブログで、神社の境内の中に塔が残されている事例をいくつか紹介した。奈良時代には仏教を広めるために日本古来の神道との融合策がとられ、神社に神宮寺が併設されたり、寺に鎮守社が建てられたりしたのだが、そのような神仏習合が平安時代になると仏が仮に神の姿で現れるという本地垂迹思想が広がり、神社に神の本地である仏を祀る本地堂を建てたり、神宮寺に仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)を祀る塔が建てられたりして、...

旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後

慶応四年(1868)三月から四月にかけて、江戸城を明け渡すことにつき明治新政府と旧幕府との間で交渉が行われ、徳川宗家の本拠たる江戸城が何の抵抗もなく無血裏に明け渡されたのだが、開城前に行われた交渉で徳川慶喜の名代・勝海舟が、西郷の提示した江戸城総攻撃を回避する諸条件の回答として提示した条件のひとつに、幕府が従来使用していた軍艦を引き渡すということが記されていた。しかしながら、これらの軍艦を率いていた榎本...

厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ...

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。【新島八重】前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。Wikipediaによると会津藩の砲術師範であ...

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた。大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退...

暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化

ドイツ村公園のすぐ近くに四国霊場第二番札所の極楽寺(鳴門市大麻町桧ダンノ上12 ☏088-689-1112)がある。寺伝では奈良時代に行基が開基したとあり、弘仁6年(815)には空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたと伝わっているのだそうだが、境内から平安時代の瓦が出土しているので古い寺であることは間違いがない。本尊の木造阿...

鳴門市とドイツとの100年を超える友好関係のきっかけを作った会津人

重たいテーマを書き続けているうちに、少し気分転換をしたくなって徳島県を旅行してきた。旅程を決めたときには認識していなかったのだが、最初に訪問した鳴門市が、前回までのテーマである東北の戊辰戦争とつながることを旅行の途中で気が付いた。今回はそのことを書こうと思う。最初の訪問地は四国八十八ヶ所霊場の第一番札所霊山寺(りょうぜんじ:鳴門市大麻町板東塚鼻126 ☏088-689-1111)である。室町時代は三好氏の庇護を受け...

激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五...

兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。【白河城】奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。白河...

東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。「満座人皆...

仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。罪第一等 徳川慶喜、罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)「朝敵」の認定を受けた藩は西日...

西郷隆盛は明治新政府の初期の腐敗ぶりに涙した

岩波文庫に『西郷南洲遺訓』という本がある。この本に西郷隆盛の遺訓をまとめた『南洲翁遺訓』などが収められているのだが、この『南洲翁遺訓』は戊辰戦争で薩摩藩と敵対した旧庄内藩の旧家臣の手によって、明治23年に制作され広く頒布されたものである。なぜ薩摩藩ではなく庄内藩の旧家臣によって西郷隆盛の遺訓集が作成されたのかと誰でも思うところなので、その点について少し説明しておこう。【薩摩藩邸襲撃による火災】薩摩藩...

戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考える...

攘夷論者が、実行できないことがわかっていながら「攘夷」を唱え続けた理由

戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』という檄文の全文とその大意がWikipediaに紹介されている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84この有名な檄文を読み始めると、冒頭から興味深いことが書かれている。『初め、薩賊の幕府と相軋(きし)るや、頻(しきり)に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷(て...

明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった

前回記事で『維新前後の政争と小栗上野の死』という書物を紹介したが、著者の蜷川新氏の主張しているとおり、徳川幕府が大政奉還を廃止したのちに薩長がすぐに取組むべきことは封建的支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固める事であったはずだ。明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせた...

大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があっ...

2018年新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことに有難うございました。多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。【綾部山梅林…兵庫県たつの市御津町】何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやSNSなどで記事の...

大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすので...

廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年...

「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き

前々回の記事で明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅したことに触れた。2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は20...

鳥取砂丘から若桜町、『日本三大投入堂』の一つ不動院岩屋堂を訪ねて

鳥取旅行の2日目はあいにく雨になった。お世話になった宿にお礼を言ったのち、せっかく浦富海岸に来たのだから、海岸沿いの駐車場に車をとめて海岸の散歩に出ることにした。上の画像は浦富海岸の島の一つである「向島」である。浦富海岸は約15kmも続くリアス式海岸で、海岸西部には海水等の侵食による花崗岩の断崖、奇岩、洞門が続き、海面上に大小の島や岩が散在していて『日本百景』にも選ばれている自然景勝地なのだが、さすが...

陸軍に破壊された鳥取城の城跡から神話の舞台となった白兎海岸へ

前回記事で、明治時代の初めに因幡東照宮(現鳥取東照宮)の神仏分離が行われ、別当寺の大雲院が移転され、鳥取の最大の祭礼であった権現祭りが行われなくなったことを書いたが、鳥取の人々は、さらに地域の人々の誇りであった鳥取城をもこの時期に失うこととなる。次の目的地は鳥取城跡だ。駐車場はあまり多くないのだが、運よく無料のお堀端路上駐車場が空いていたので利用した。鳥取城は久松山城とも言われ、織田信長の中国攻めで...

鳥取の紅葉名所・智頭町の諏訪神社と鳥取東照宮の神仏分離

毎年紅葉の季節になると、古い寺や神社を巡りたくなる。あまり有名すぎる観光地は人が多すぎて風情を感じることが少ないので避けて、なるべく古いものがそのまま残されていそうな場所を選んで旅程を立てるのだが、今年は鳥取県から日本海に向かうことにした。最初の目的地は、鳥取県南東部にある八頭郡智頭(ちず)町。この辺りは山陰と山陽をつなぐ交通の要衝の地で、律令制下ではこの智頭には道俣駅(みちまたのうまや)が設置され、...

吉田松陰はペリーを暗殺するためにポーハタン号に乗り込んだのか

嘉永七年(1854)三月二十七日ペリーの二度目の来航の際に、吉田松陰と金子重之輔が海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗り込もうとした事件があった。二人は、渡航を拒否されたために下田奉行所に自首し伝馬町牢屋式に投獄され、死罪は免れたものの松陰は長州へ檻送されたのちに野山獄に幽囚されたのだが、松陰がペリーのいるポーハタン号に向かった目的は何であったのか。アメリカに留学しようと...

ペリーの再来航と日米和親条約

ロシアのプチャーチンが長崎を去った八日後の安政元年一月十六日に、今度はペリーが再び浦賀に現れた。ペリーは昨年六月に一年後の再来航を告げて江戸を去ったのだが、幕府にすれば、ペリーがこんなに早く来航することは想定していなかったはずだ。【鳳凰丸】ところで幕府は、一年後にペリーが再来航することを前提に様々な準備をしていたようだ。以前に記したように、老中阿部正弘は強硬な攘夷論者であった水戸齊昭を海防参与に据...

嘉永6年に行われたわが国とロシアの領土談判とプチャーチンの残した警告

前回の記事で、アメリカのペリーが来航した翌月の嘉永六年(1853)七月にロシアのプチャーチンが長崎に来たことを書いた。プチャーチンは、ペリーのようにわが国を武力で威圧するようなことはしなかったが、携えてきた国書には両国の親善と交易の開始のほかに両国の境界を定めるという難問が記されていた。しかも、プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に老中に宛てて記した十月十八日付けの書簡には、択捉島も千島列島も樺太島も...

ペリーが江戸を離れた翌月に4隻の艦隊を率いて長崎に来航したロシアのプチャーチン

前回まで2回に分けて嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に来航したペリーの事を書いた。徳川幕府は将軍の病気を口実に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後の再来航を約して6月12日江戸を離れたのだが、それからわずか10日後の6月22日に将軍家慶が死去している。そして幕府が7月3日水戸齋昭を海防参与に任じた2週間後の7月17日に、今度はロシアのプチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。【パルラダ号】ロ...

ペリーが持参した米国大統領の国書と、有力諸藩大名が幕府に提出した意見書を読む

前回の記事で、徳川幕府の老中首座阿部正弘がペリーの持参した米国の国書の受取りを認め、一行の下田上陸を許したことを書いた。この時幕府は、12代将軍徳川家慶の病気を理由に返答の1年の猶予を要求したのだが、そもそも、この国書には何が書かれていたのだろうか。一般的な日本史教科書である『もう一度読む 山川の日本史』には「上陸したベリーには、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。ペリ...

ペリー来航の目的と、その後幕府の権威が急速に失墜した経緯を考える

前回の記事で、江戸幕末に米の相場以上に生活必需品の価格が高騰して武士階級が困窮生活を余儀なくされていたことを書いた。徳川幕府は有効な対策を講じないまま求心力を失っていったのだが、徳富蘇峰は『近世日本国民史 第31巻』でこう解説している。「…徳川幕府中心主義を、わが全国民が遵奉し、かつ徳川幕府がこれを遵奉せしめ得る場合においては、鎖国政策も祖法としてこれを維持するを得べきも、国民の心が徳川幕府より離れ...

江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える

菊池寛の『大衆維新史読本』という本を電子書籍で見つけて読んでいると、面白いことが書かれていたので紹介したい。文中の「ペルリ」とは嘉永6年(1853)に浦賀沖に姿を現した、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのことである。「甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠(いんろう)、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕(ばくえき)する隙なく、第二に身持堅気(かたぎ)になり、仕...

後醍醐天皇を支えた武将・楠木正成にまつわる南河内の史跡を訪ねて

富田林寺内町の散策を終えて、滝谷不動(富田林市大字彼方1762 ☎0721-34-0028)に向かう。滝谷不動は通称で『滝谷不動明王寺』というのが正式な寺の名称なのだが、寺伝によると弘仁12年(821)に弘法大師が創建したと伝えられ、造営当初は今よりも約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。南北朝時代に楠木正成が嶽山城を築城した際は、滝谷不動明王寺本尊の不動明王をその城の守護仏と...

天誅組河内勢に関わる史跡と富田林市寺内町の美しい町並みを訪ねて

大阪府の富田林市とその周辺は先史時代より人々の暮らしが営まれていた地域で、大和川支流である石川を望む丘陵上には氏族の首長たちの古墳が数多く残されており、古い歴史を持つ神社や寺があるほか、近世の寺内町など数多くの文化財が残されている。特にこの地域には南朝や、天誅組に関わる寺社などが多いことに興味を覚えて、先日富田林市、河内長野市、千早赤阪村を巡ってきた。最初に訪れたのは、美具久留御魂神社(みぐくるみ...

幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都

以前このブログで、明治2年(1869)に『遷都の詔勅』が出されないまま「東京遷都」が強行されたことについて、京都を中心に書いた。教科書では東京遷都について、「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(『もういちど読む 山川日...

貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯

「スリーダイヤ」の三菱のマークを知らない日本人はほとんどいないと思うのだが、戦後GHQが財閥解体を行うまでは、三井財閥・三菱財閥・住友財閥は三大財閥と呼ばれていた。三大財閥のうち三井、住友の両家はそれぞれ300年以上の商家としての歴史があり富の蓄積があるのに対し、三菱は明治期の動乱期に、創業者の岩崎彌太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いたとされる。三菱グループのホームページに『岩崎彌太郎物語』が...

尼港事件の大惨事を教科書やマスコミはなぜ伝えないのか

前回の記事で、ソ連が「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行い、西欧諸国の共産化が失敗した後は工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにされていたことが、戦前のわが国の新聞記事で具体的な事例を多数確認できることを紹介した。前回は昭和3年(1928)以降のわが国に対する工作活動を中心に記事に書いたが、そればかりではなく極東における「世...

コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか

1917年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、その後しばらくは混乱が続いている。一般的な教科書にはこう解説されている。「パリ講和会議の開催中、日・米・英・仏の4ヵ国はそれぞれソヴィエト領内に出兵し、干渉戦争(1918~22年)を戦っていた。またソ連国内の反革命派も反乱にたちあがり、革命政府は一時苦境におちいった。しかし外国の干渉はかえってロシア国民の愛国心を高め、政府は赤軍を増強して反撃...

長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話

シベリアの抑留を体験し、帰国後に全国抑留者補償協議会を結成し、ソ連政府と直接交渉を重ねて抑留死亡者名簿の引渡しや墓参の自由化を実現させた斎藤六郎氏が、何度かロシア公文書館を訪れて関東軍に関する重要書類の大量のコピーを我が国に持ち帰っている。ロシア公文書館には旧ソ連軍が持ち去った関東軍の機密文書が大切に保管されていたようだ。その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「...

飯田市の観光を楽しんだのち、「満蒙開拓」とは何だったのかを考える

南信州旅行の3日目は、月下美人の精算を済ませたのち天竜川の舟下りにいく予定を組んでいた。飯田市の天竜川下りは弁天港から出発する「天竜舟下り」と天龍峡温泉港から出発する「天龍ライン下り」の2つがある。旅館の人に聞くと景色は天龍峡を通る「天龍ライン下り」の方が良いかもしれないが、「天竜舟下り」の方が上流なので流れが速くて水しぶきを浴びるスリルが味わえるとのことだった。いずれも伝統的な木造船の造船技術およ...

養命酒駒ヶ根工場見学ののち、秘境・遠山郷の素晴らしい文化と絶景を楽しんで

翌日の望岳荘の朝は快晴で、美しい日本アルプスが遠くまで見渡せた。旅行2日目は、細い山道をかなり走る旅程なので良い天気に恵まれたことは有難い。最初の訪問地は養命酒駒ケ根工場なのだが、養命酒は、慶長7年(1602)信州伊那の谷・大草(現在の長野県上伊那郡中川村大草)の塩沢家当主、塩沢宗閑翁によって創製されたと伝えられている。養命酒発祥の地は望岳荘にかなり近い場所で、現在石碑が建てられているようなのだが、一般公...

ヒカリゴケが群生する光前寺から飯島陣屋跡、西岸寺を訪ねて

熱田神社から31kmほど走って、次の目的地である光前寺(こうぜんじ:駒ヶ根市赤穂29 ☎0265-83-2736)に向かう。光前寺は、平安時代の貞観2年(860)に本聖(ほんじょう)上人が開山したとされる天台宗の寺で、広大な境内の全域が国の名勝に指定されている。仁王門を過ぎると長い参道が続き、参道に沿って林立する杉並木の大きさがこの寺の歴史と風格を感じさせてくれる。上の画像は嘉永元年(1848)に再建された三門で、十六羅漢が祀られ...