「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。 最近になって、ロシア人のドミトリー・プロ...
昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
前回まで2回に分けて、昭和3年(1928)の「満州某重大事件」について書いた。簡単に要約すると、この事件に関しては関東軍がやったということが定説となっているが、この説には確たる証拠はなくほとんどすべてが噂や伝聞によるものであり、現場で撮影された写真や現場検証の記録は悉く定説と矛盾している。その一方、公開されたイギリスの外交資料には明確にソ連が実行し日本に疑いが向くように工作したものと結論付けられており、旧...
軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
前回の記事で、日本軍には左翼分子が少なからずいて、軍部の「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に従ったものではないかということを書いた。当時、そのことに気が付いた人の記録が残っていることも書いたが、今回は昭和20年2月に近衛文麿が天皇陛下に対して戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』を紹介したい。この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いているのだが...
尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
前回の記事で近衛文麿が、軍部内の革新論に立つメンバーが、わが国を共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは計画的なものであったことは明らかであると述べていることを紹介したが、一人だけだとあまり信用していただけないと思うので、今回は軍部を動かしていた側の文書を紹介してみたい。 共産主義者に軍部を動かす動機があったことを知るた...
「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中に、入手経路が不明なるが故に怪文書とされているものがある。偽書なのか本物なのかは今となっては判断できないのだろうが、そこに書かれていることは極めて重大なことである。 入手ルートは秘匿されても、国会図書館に所蔵されていることは、当時としては信頼できる筋から入手したものなのだろう。そこに書かれているのは、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会にお...
アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影
前々回の記事で昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説で「砕氷船のテーゼ」と呼ばれる部分を紹介した。再掲すると、 「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと...
米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
前回の記事で西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』に解説されている、長野朗氏の『支那三十年』という本の一部を紹介した。この当時長野氏は北京の中国人の家に下宿しておられて、中国の排日運動をつぶさに見てこられたのだが、この著書の中で、中国の排日運動は、当初アメリカやイギリスが、対中貿易拡大のために日本企業が築き上げた中国市場における商圏を奪い取る目的で、中国人を煽動しはじめたということを、かなり具体的に書い...
中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
前回まで、長野朗氏の『支那三十年』というGHQ焚書処分された書物の内容の一部を紹介してきた。 長野氏はこの著書で、中国の排日は中国大陸で最大の交易国であった日本の商圏を奪い取る目的で英米が最初に「排日思想」を中国人に植え付けたものであり、事実アメリカは日本を追い落として中国の最大の交易国となり目的を達したことや、その後中国では二十年もの間行われてきた「排日教育」が徐々に中国人に浸透して民族主義と結びつ...
GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
以前このブログで、三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という書物が英訳されて、当時GHQ(連合国総司令部)の情報部長であったウィロビーの眼に止まったことが、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなったことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html マッカーサーはこのウィロビー将軍のことを、「在任中に出会った最も優れた知性派の将校であり、陸軍広しといえども将軍に続く人物を...
ゾルゲ、尾崎らが一斉検挙に至った経緯について
前回の記事で尾崎秀実自身がソ連のスパイ活動をしていたことを記述した獄中手記の文章を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘と言う人物だが、特高はその前に、アメリカ共産党員の宮城与徳を自白させてゾルゲや尾崎がスパイ活動をしているとの供述を引き出している。ところが、当時この宮城与徳という人物については捜査線上になく、北林トモというアメリカ共産党員の取調べで浮上してきたという。...
学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
以前このブログで、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を紹介した。 「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、(1) 自国政府の敗北を助成すること(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること(3) 民主的な方法による...
帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9
前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国の敗戦を機に、陸軍主導で共産主義革命を起こそうとしたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。一番わかりやすいのは、関東軍だろう。以前このブログで、関東軍が独断で実行したことになっている昭和3...
共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
今までこのブログで何度か紹介してきた、種村佐孝という人物についてWikipediaではこう解説されている。「太平洋戦争(大東亜戦争)中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった『第7006俘虜収容所』にて、共産主義革命...
昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
前回の記事で、わが国の終戦工作を担当した陸軍大佐がひどくソ連寄りであったことを書いたのだが、ではなぜ、わが国の軍隊の中枢部に共産主義思想の持ち主が入り込むことを水際で阻止できなかったのかと誰でも思う。以前このブログで、尾崎秀実を取り調べた特高の宮下弘氏の著書『特高の回想』を紹介したことがある。その宮下氏が右翼担当であった時に、皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れたことがあり、その時に真崎が宮下氏に語った...
ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するた...
日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む
前回は、ソ連が如何にしてわが国や世界に共産主義を拡げていったかについて書いたのだが、読者の中には、「軍国主義」を礼賛したような時代のわが国の新聞に書かれている記事を紹介されても、その内容そのものが信用できないという方もおられるだろう。そこで今回は、当時の日本共産党が軍部に対してどのような文書を拡散していたかを紹介したい。昭和7年(1932)9月1日に日本共産党が対軍工作の為に出した『兵士諸君に与ふ』という...
なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む
高校で日中戦争を学んだ時に、わが国がなぜ戦争に巻き込まれのかが理解できなかったのだが、最近の教科書ではどう書かれているのかと思って『もう一度読む 山川の日本史』を読み直してみる。そこにはこう記されている。「日本はしだいに中国北部にも勢力を伸ばし、この地方の軍閥に力を貸して、国民政府の影響から切り離そうとした。そのころ中国では、国民政府と共産党の内戦が続いていたが、1936(昭和11)年に張学良が蒋介石を監...
なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
このブログで『シベリア抑留』について何度か書いたことがある。『抑留』という言葉はわが国が旧ソ連に配慮した言葉と言って良く、実態は『捕虜』であり日本人が奴隷の如く酷使されたのであるが、終戦直後にはわが国の公文書や新聞などでも『捕虜』や『俘虜』という言葉がよく用いられていたことが確認できる。しかし、最近の教科書では『抑留』という言葉ですら使っていないことに気が付いた。たとえば、標準的な高校教科書である...
わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。し...
『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
前回の記事で柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』という本を紹介した。この本には、第一次近衛内閣の時にわが国が日中戦争に巻き込まれ、さらに本格的な臨戦態勢が打ち出されて全体主義的統一国家へと変貌していったのだが、それを推進したのは近衛が集めたブレーン・グループで、その一部は尾崎秀実のようにソ連・コミンテルンに繋がっていて、彼らはわが国を敗戦に導くことによって一挙に共産主義革命を実現する考えであったとい...
長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話
シベリアの抑留を体験し、帰国後に全国抑留者補償協議会を結成し、ソ連政府と直接交渉を重ねて抑留死亡者名簿の引渡しや墓参の自由化を実現させた斎藤六郎氏が、何度かロシア公文書館を訪れて関東軍に関する重要書類の大量のコピーを我が国に持ち帰っている。ロシア公文書館には旧ソ連軍が持ち去った関東軍の機密文書が大切に保管されていたようだ。その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「...
コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか
1917年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、その後しばらくは混乱が続いている。一般的な教科書にはこう解説されている。「パリ講和会議の開催中、日・米・英・仏の4ヵ国はそれぞれソヴィエト領内に出兵し、干渉戦争(1918~22年)を戦っていた。またソ連国内の反革命派も反乱にたちあがり、革命政府は一時苦境におちいった。しかし外国の干渉はかえってロシア国民の愛国心を高め、政府は赤軍を増強して反撃...
尼港事件の大惨事を教科書やマスコミはなぜ伝えないのか
前回の記事で、ソ連が「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行い、西欧諸国の共産化が失敗した後は工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにされていたことが、戦前のわが国の新聞記事で具体的な事例を多数確認できることを紹介した。前回は昭和3年(1928)以降のわが国に対する工作活動を中心に記事に書いたが、そればかりではなく極東における「世...
関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える
前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であること...