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しばやんの日々

源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか

源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で幼名を牛若丸と呼ばれ、父の源義朝が敗死した後に鞍馬寺に預けられ、その後奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護をうける。兄の頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で活躍し、平氏を滅ぼした最大の功労者であるのだが、その後頼朝と対立して朝敵とされ、再び義経は藤原秀衡を頼って奥州平泉に赴いた。しかし、義経を匿っていた秀衡は文治3年(1187)10月2...

シーボルトと日本の開国

ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時であった。彼は、来日した翌年に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義をし、高野長英、二宮敬作、伊藤玄朴ら、多くの弟子を育て、文政9年(1826)にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、将軍徳川家斉に謁見したほか、最上徳内や高橋景保ら多くの学者と交流したという。そのシーボルトが文政11年(1828年)9月、所...

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。『寄合町諸事書上控』という古...

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか

シーボルトと同様にオランダ商館付の医師として出島に滞在し、離日後わが国のことを書物に著した人物は何人かいる。エンゲンベルト・ケンペル(1651~1716)は、1690年(元禄3)に来日し出島に約2年間滞在の後、1691年と1692年と連続して江戸参府を経験し、将軍徳川綱吉にも謁見している。 日本に滞在中に多くの資料を収集し、1692年に離日して1695年にヨーロッパに戻り、彼の遺稿となった『日本誌』が1727年にロンドンで出版されてい...

シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所...

梅の咲く季節にシーボルトが絶賛した賀茂神社を訪ねて

たまには古い街並みを歩きたいと思って、兵庫県たつの市の室津に行ってきた。そろそろ梅が見頃のようなので、最初に近くにある綾部山梅林(たつの市御津町黒崎1492 ☎079-322-3551)を旅程の最初に入れていた。この梅林は24ヘクタールの広大な綾部山広陵に2万本近い梅の木が植えられているという。今年は開花が遅れていて7分咲き程度であったが、充分楽しめることが出来た。この記事をアップする頃は満開になっているだろう。漂う梅...