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しばやんの日々

幻の映画、「氷雪の門」

8月20日、霧の深い早朝であった。突如ソ連艦隊が現われ、真岡の町に艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎に包まれ、戦場と化した。この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話の回線、避難経路の指示、多くの人々の生命を守るため、彼女たちは職場を離れなかった。局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはやこれまでだった。班長はたった一本残った回線に、「皆さん、これが最後です。さよ...

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと

昭和20年8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表され、全日本軍は一斉に戦いを止めて連合国に降伏した。この8月15日が『終戦の日』で、この日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていたのだが、樺太や千島や朝鮮半島ではその後もソ連軍と激しい戦いが続き、多くの犠牲者が出たことを知ったのは比較的最近のことである。 日本人の多くがそのことを知らないのは当然の...

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5

前回まで4回に分けて、GHQに焚書処分された長野朗氏の2つの著書の文章を当時の新聞記事とあわせて紹介したが、戦前の日本人の文章や新聞記事は信用できないという人も少なくないだろう。そこで、今回はアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ氏が1938年(昭和13年)11月に著した、”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』:芙蓉書房出版)という書物を紹介することにしたい。この本の...

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える

昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、わが国政府はこれを連合国に通知し、翌15日の正午に昭和天皇自らの肉声による『終戦の詔書』が全国に放送された。わが国が敗戦した当時、国外にいた軍人・軍属がおよび民間人はそれぞれ約330万人で、合わせて660万人と見られているのだそうだが、帰還事業は米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど米国の援助を得て急速に進み、敗戦の翌年までに約500万人が海外...

アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情

ウィロビーの回顧録を読み進んでいくと、1947年4月23日付でウィロビーが纏めさせたマッカーサー最高司令官に宛てた『総司令部への左翼主義者の浸透状況』というマル秘レポートが掲載されている。一部を紹介させていただく。まず、どの程度ソ連に近い人物がGHQにいたのだろうか。このレポートにはこう書かれている。 「総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の...

朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか

仁川上陸作戦で北朝鮮軍の補給路を断ち攻勢に出た国連軍を指揮するマッカーサーに対し、米統合参謀本部は北進攻撃の許可と詳細な指令を1950年9月28日に出し、いよいよ38度線を超える北進攻撃が開始された。しばらくウィロビーの回顧録を引用する。 「連合国軍による38度線を突破しての北進攻撃は、まず韓国軍の二個師団によって開始された。1950年9月30日、これらの部隊は東海岸沿いの道路を一挙に北上、10月3日には38度線を突破し...

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか

前回まで、わが国が連合軍に占領されていた時期から朝鮮戦争までの歴史を追ってみた。ウィロビー回想録の文章を引用しながら当時の雑誌などの記事をいくつか紹介してきたが、これらを読んでいくと、今までわが国の教科書やマスコミなどで広められてきた現代史の知識はかなり一面的なもので、一番重要なソ連の関与には全く言及していないことに気づくことになる。以前このブログで1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内...

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる

前回および前々回の記事で、1928年以降アメリカだけでなくわが国においても、政府や軍部の中枢部にソ連の影響が大きかったのではないかということを述べてきた。 今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和16年10月に逮捕された尾崎秀実が昭和17年(1942)3月か4月頃に獄中で執筆した手記を紹介したい。 尾崎秀実を取り調べた宮下弘氏の著書によると、尾崎は10月15日の早朝に逮捕され、正午から取り調べが始まり、先に逮捕されていた...

『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2

前回の記事で、『ポツダム宣言』がわが国に対し戦争を終結させるための条件を提示した文書である事を書いた。 実はこの『ポツダム宣言』が公表される前に、連合国側がわが国に提示しようとしていた天皇制維持に関する重要な部分が削除されたことを最近知った。しばらく鳥居民氏の解説を引用する。「ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた...

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった

8月8日付の産経新聞にこんな記事が掲載されていた。「ロシアが、米国による広島、長崎への原子爆弾投下を『犯罪』として糾弾する動きを強めている。米国を唯一の『非人道的な使用国』と宣伝することで自国の核保有を正当化し、さらに日米の分断を図る思惑が見える。『米国の原爆でなく、ソ連の対日戦争こそが第二次世界大戦を終結させた』と主張し、日ソ中立条約を破った事実をかき消そうとする論調も目立つ。 プーチン露大統領に...

コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか

1917年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、その後しばらくは混乱が続いている。一般的な教科書にはこう解説されている。「パリ講和会議の開催中、日・米・英・仏の4ヵ国はそれぞれソヴィエト領内に出兵し、干渉戦争(1918~22年)を戦っていた。またソ連国内の反革命派も反乱にたちあがり、革命政府は一時苦境におちいった。しかし外国の干渉はかえってロシア国民の愛国心を高め、政府は赤軍を増強して反撃...