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しばやんの日々

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。 豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかった...

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。 秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.htmlこの人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記など...

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。 「薩摩軍が豊後で捕...

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。 「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。それよりも...

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があ...

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を...

若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾で津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。 記事によると、 「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容...

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要があ...

戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む

以前何度かこのブログで紹介したが、戦国時代の日本にイエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスが当時のわが国の記録を詳細に残しており、中公文庫の『フロイス日本史』でその日本語訳を読むことができる。フロイスのこの著書の第1分冊に、今年ももうすぐ山鉾巡行が行われる京都『祇園祭』の記録を見つけたので紹介したい。イエズス会が我が国に派遣したポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラについての1562年の記録の一...

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。 下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。 前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第...

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える

前々回の記事で、1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したことを書いた。渡航先は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国であったのだが、それらの地域には多くの日本人が移り住んで日本人町ができたという。「移り住んだ」と書くと、如何にも日本人全員が自分の意志で海外に渡っていった印象を受けるのだが、もう少し正確に言うと、少なから...

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。当時わが国に滞在してい...

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代

前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。以前このブログで、15世...

わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』

天文18年(1549)8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えた頃のことを以前このブログで記したことがある。フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.htmlフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.htmlそもそも、宗教の自由だと...

薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。【耳川合戦図屏風】天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて...

農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受け...