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しばやんの日々

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか

前回の記事で、戦国時代にキリシタンによって多くの社寺仏閣や仏像等が破壊され、また多くの日本人が海外に奴隷に売られて行った背景には、異教国や異教徒に対してそのような方法で異教徒の世界を破壊してキリスト教世界を拡げることが、ローマ教皇による教書で認められていたことが背景にあることを書いた。たまたまこの時代はわが国に優良な武器が大量に存在し、またわが国の為政者がキリスト教の宣教師が侵略の手先であることを...

ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた

前回の記事でロシアの全権使節であるニコライ・レザノフがわが国に通商を求めてきたことに対し、わが国は半年間待たせた上で拒絶回答をして以降、蝦夷地にロシア船が出没して乱暴狼藉を働く事件が相次いだことを書いた。その後江戸幕府内で、ロシアと通商を開始すべきではないかとする意見が出てきたという。当時箱館奉行、松前奉行として蝦夷地経営の最高官僚であった羽太正養(はぶとまさやす)が記録した『休明光記』に詳しく叙述...

間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した

前回の記事で、江戸幕府はフヴォストフが次回蝦夷地に現われた時には、ロシアとの交易を条件付きで認める返書を手渡す準備していたのだが、フヴォストフはわが国で乱暴狼藉を働いたことでロシア皇帝の命令によりオホーツクの獄に繋がれたために、手紙をロシア側に手渡すことが出来なかったことを書いた。この手紙がロシア側に届けば別の展開になっていたのだろうが、届かなかったので幕府はますますロシア船を厳戒せざるを得なくな...

ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵

文化元年(1804)にレザノフが長崎に来航したのだが翌年に追い返されたのち、文化3年(1806)、文化4年(1807)にレザノフの部下であるフヴォストフが武力でわが国を開国させようと乱暴狼藉を働いた事件があり、その翌年の文化5年(1808)に江戸幕府は間宮林蔵に樺太の探検を命じている。林蔵は2度にわたる探検で樺太が島であることや、樺太や大陸の黒龍江周辺地域がロシアの支配下にないことを確認した。一方長崎では、文化5年(1808)8月に...

ペリーが江戸を離れた翌月に4隻の艦隊を率いて長崎に来航したロシアのプチャーチン

前回まで2回に分けて嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に来航したペリーの事を書いた。徳川幕府は将軍の病気を口実に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後の再来航を約して6月12日江戸を離れたのだが、それからわずか10日後の6月22日に将軍家慶が死去している。そして幕府が7月3日水戸齋昭を海防参与に任じた2週間後の7月17日に、今度はロシアのプチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。【パルラダ号】ロ...