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しばやんの日々

条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か

前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日本人乗客が全員溺死した事件を紹介した。最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっ...

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯

文久2年(1862)に公武合体策の一環として和宮と結婚した将軍徳川家茂は、翌文久3年(1863)3月に上洛した際、義兄にあたる孝明天皇に攘夷の沙汰を申しつけられ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し諸藩にも通達した。攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、軍艦4隻を配備して海峡封鎖の態勢をとり、攘夷期日の5月10日に田ノ浦沖に停泊...

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと

前回の記事でトーマス・グラバーが薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎や長州藩の伊藤博文、井上馨らの海外密航留学の手引きをしたことを書いた。グラバーは安政6年(1859)に、21歳の時に「ジャーディン・マセソン商会」に入社後、開港後間もない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し貿易業を営んだ。当初は生糸や茶の輸出が中心だったのだが、8月18日の政変後...

極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか

文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国に...

鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた

前回の記事で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するために、明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治16年(1883年)11月28日に落成した建物であるのだが、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞すことになる。【尾崎行雄】鹿鳴館外交を批判し...