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しばやんの日々

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1

わが国の初代首相であった伊藤博文は、明治42年(1909)10月26日にハルビン駅頭で、韓国の独立運動を進めていた安重根によって射殺されたというのが定説になっている。韓国では、安重根は抗日戦争の英雄と評価され、1970年にはソウルに「安重根義士記念館」が建設されるなど、まるで韓国の国民的英雄扱いだ。しかし、伊藤博文を暗殺した犯人は安重根でないという説が、随分昔からある。そもそもこの時に伊藤博文の随行員として事件現...

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2

韓国最大の発行部数を誇る「朝鮮日報」という新聞の日本語サイトに、今年の3月24日付で「安重根の公判記録を隠した日本」という記事が出たようだ。この記事は多くの人が注目して、2ちゃんねるやさまざまなブログなどで紹介されている。 今回のテーマに関わる部分なので、記事の肝心な部分を引用しておく。記事の全文は、次のURLで読むことが出来る。http://asia-news.doorblog.jp/archives/24925872.html 「今月26日に没後103周年...

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3

前回まで2回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。 通説では犯人は安重根という事になっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、伊藤の最も近い位置にいた室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。室田の証言が正しければ、安重...

条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か

前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日本人乗客が全員溺死した事件を紹介した。最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっ...

日清戦争で日本軍は、陸も海も連戦連勝だった

明治27年(1894)7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦の秋津洲(あきつしま)、吉野と浪速(なにわ)の三鑑が、会合予定であった巡洋艦の武蔵と八重山を捜していたところ、突然、清国巡洋艦の済遠(サイエン)と広乙が海上にあらわれた。この段階では日清両国で互いに宣戦布告は出されていなかったが、わが国が7月19日に突きつけた5日間の猶予つきの最後通牒への返答がないまま期限が切れており、法的には戦争状態に入っていた。...

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか

明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定したのだが、その御前会議が終わった後の夕刻6時に、枢密院議長・伊藤博文は、金子堅太郎を官舎に呼び寄せて、「これから直ぐにアメリカに行ってもらいたい」と告げたという。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に金子堅太郎本人が口述した『日露戦役秘録』という本が公開されているが、この時の金子堅太郎と伊藤博文の会話を読んでいると、この時期のわが国の状...

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯

文久2年(1862)に公武合体策の一環として和宮と結婚した将軍徳川家茂は、翌文久3年(1863)3月に上洛した際、義兄にあたる孝明天皇に攘夷の沙汰を申しつけられ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し諸藩にも通達した。攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、軍艦4隻を配備して海峡封鎖の態勢をとり、攘夷期日の5月10日に田ノ浦沖に停泊...

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと

前回の記事でトーマス・グラバーが薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎や長州藩の伊藤博文、井上馨らの海外密航留学の手引きをしたことを書いた。グラバーは安政6年(1859)に、21歳の時に「ジャーディン・マセソン商会」に入社後、開港後間もない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し貿易業を営んだ。当初は生糸や茶の輸出が中心だったのだが、8月18日の政変後...

日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国

日露戦争でロシアに勝利した5年後の明治43年(1910)にわが国は韓国を併合したのだが、この経緯について一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』にはこのように記されている。「日露戦争のおわりごろ、三民主義をとなえる孫文を指導者として、清朝打倒の革命をめざす中国同盟会が東京で発足したことに象徴されるように、それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。 しかし日本は、列強の植民地政策を...

日露戦争の頃から日本軍に好意を示した韓国民衆がかなり存在した

前回の記事で、わが国が日清戦争で勝利して清国勢力を朝鮮半島から追い出すと、今度はロシアが介入してきたのでわが国は日露戦争を戦って勝利し、ロシア勢力を朝鮮半島から排除したことを書いた。わが国は韓国を近代化させるために保護国化したのだが、その点について、アメリカやイギリスは干渉しなかったことは重要なポイントである。もしこのような大国の干渉があれば、今までと同様にこの国は強いと思った国に靡いていたことで...

江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える

菊池寛の『大衆維新史読本』という本を電子書籍で見つけて読んでいると、面白いことが書かれていたので紹介したい。文中の「ペルリ」とは嘉永6年(1853)に浦賀沖に姿を現した、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのことである。「甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠(いんろう)、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕(ばくえき)する隙なく、第二に身持堅気(かたぎ)になり、仕...

極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか

文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国に...

鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた

前回の記事で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するために、明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治16年(1883年)11月28日に落成した建物であるのだが、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞すことになる。【尾崎行雄】鹿鳴館外交を批判し...

反対勢力との戦いに孤軍奮闘し、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信

嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの記録に残されている。「小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子ども...

欧化主義者の伊藤博文に楯突いて鹿鳴館外交を終わらせた谷干城

明治政府が採用した欧化政策のなかで、最も極端であったのは鹿鳴館の舞踏会騒ぎであった。明治十六年八月に伊藤博文がヨーロッパ諸国の諸制度を調べる外遊から帰国すると、十八年に太政官制度を廃止して内閣制度を創設したのを手始めに、制度万般のヨーロッパ化を図ろうとし、また、自ら内閣総理大臣となり、当時最大の外交問題であった条約改正を解決しようと、井上馨を外務大臣に据えた。この二人がこの問題解決の為に考えたこと...