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しばやんの日々

西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した

慶応3年(1867)12月9日に薩長両藩および岩倉具視らの討幕派は王政復古の大号令を発し、天皇親政による新政府を樹立した。新政府は幕府だけでなく摂政・関白を廃絶し、会津藩・桑名藩の宮門警衛を停止した。また同日夜の小御所会議で、前将軍慶喜に内大臣の官職と領地の一部を返上(辞官・納地)させる決定をしている。この決定に憤激した旧幕府方や会津・桑名の二藩は、明治元年(1868)1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と鳥...

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地

前回まで、徳川の旧幕臣達が明治維新によって悲惨な生活を強いられていたことを書いてきた。確かに転業に失敗し没落した者が多かったのだが、彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかった。そこで、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が士族の中から現われた。岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある...

江戸無血開城の真相を追う

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れて、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸に還るのだが、江戸城の家臣も大坂城と同様に主戦論を主張する者が大半であった。渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。「陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんとい...