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しばやんの日々

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2

前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。前...

大友宗麟はキリスト教に接近し、洗礼を受ける前から神社仏閣を破壊した

前回は大村純忠の神社仏閣の破壊のことを書いたが、今回は大友義鎮*のことを記すことにしたい。*大友義鎮(おおともよししげ): 豊後国大友氏第21代当主。永禄5年(1562)に出家し「宗麟」と号した大友義鎮が豊後の国主となったのは天文19年(1550)のことだが、その翌年にフランシスコ・ザビエルを府内の城中に引見して、キリスト教の教義を聴き、領内での布教を許可したことから、領内でキリスト教の信仰が拡がって行くことになる。前...

薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。【耳川合戦図屏風】天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて...