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しばやんの日々

戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考える...

仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。罪第一等 徳川慶喜、罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)「朝敵」の認定を受けた藩は西日...

東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。「満座人皆...

兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。【白河城】奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。白河...