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しばやんの日々

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3

竹林院群芳園で朝食を済ませて、吉野郡川上村にある蜻蛉(せいれい)の滝に向かう。あきつ小野スポーツ公園があり、その園内を川沿いに進むとこの滝が見えてくる。 蜻蛉というはトンボのことだが、『日本書紀巻第十四』雄略天皇の4年の記録にこの地名の謂れが出てくる。 「秋八月十八日、(雄略天皇は)吉野宮においでになった。二十日に川上の小野にお越しになった。山の役人に命じて獣を狩り出させられた。自分で射ようとして構えて...

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎

松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。教科書には何も書...

後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか

前回は、奈良県吉野郡川上村で匿われていた後南朝の皇子の命が奪われた事件のことを書いた。この事件は「長禄の変」と呼ばれていて、決して川上村だけに残された伝承ではない。今回は、後南朝の歴史をもう少し詳しく記すことにしたい。教科書や通史では、南北朝時代の戦乱が続いたのち、明徳3年(1392) に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について和約(「明徳の和約」)が成立して、南朝の後亀山天皇が吉野から京...