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しばやんの日々

消えた門跡寺院

江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。この本は国際日本文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。たとえば...

京都四条大橋の話

京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。 福本武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.ht...

消えた鶴岡八幡宮寺大塔など

鎌倉の鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。 鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。 上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。 幕末に来日したイギリス人の...

石清水八幡宮と松花堂弁当

徒然草の第52段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。」ではじまる有名な文章があるが、最近になってこの石清水八幡宮が以前は仏教を中心とする施設であったことを知った。 石清水八幡は貞観2年(860年)僧行教によって寺院として創建され、後に神仏習合で神社と共存するのだが、「男山四十八坊」と言われるように男山全体は以前は圧倒的にお寺...

大山崎美術館と宝積寺

前回石清水八幡宮と松花堂庭園に行ったことを書いたが、その日は時間があったのでそれから大山崎美術館とすぐ近くの宝積寺に立ち寄った。 大山崎美術館の建物はもともとは1911年に実業家加賀正太郎が個人の別荘として建てたものだそうだが、バブルの頃にある不動産会社がこの建物を壊してマンションを開発する計画が持ち上がったらしい。地元住民からこの大正期の立派な建築物を壊すことに強い反対運動が起こる中、アサヒビールが...

かみがもばなし

以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。 当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみが...

悲しき阿修羅像

今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。 今の奈良...

外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。 昨年の11月下旬に、生まれて初めてブログにチャレンジしてみましたが、予想を上回るアクセスをいただき大変励みになっています。拙い文章ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。**************************************************************************前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリ...

寺院が神社に変身した談山神社

3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。 昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長...

次々に廃寺となった奈良の大寺院

江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前がある...

文化財を守った法隆寺管主の英断

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。 現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。 興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年に...

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。 西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万...

明治期の危機を乗り越えた東大寺

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何...

一度神社になった国宝吉野蔵王堂

3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。 最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「...

明治の皇室と仏教

5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都...

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」

前回は先週行った徳島・香川方面旅行の1日目のことを書いた。その日は祖谷のホテルで一泊し、2日目は「こんぴらさん」に向かう旅程だ。 「こんぴらさん」へは今まで一度も行ったことがなかったのだが、急にここに行きたくなったのは昨年来廃仏毀釈に興味を覚えて調べているうちに、廃仏毀釈が起こるまではここは象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院であったことを知ったからである。上の絵図は江戸時代の「金毘羅参詣名所図会」...

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂

「こんぴらさん」の長い石段を785段登ったところに、金刀比羅宮の御本宮があり、三穂津姫社があり、その隣に絵馬堂がある。「絵馬堂」には大手や中小の船会社が航海の安全を祈念したり、大漁を祈願する絵馬が所狭しと吊るされている。これは「こんぴらさん」が海の神様だと信じられているからである。船だけでなく飛行機や日本人で最初の宇宙飛行士となった秋山豊寛氏の絵馬まで並べられている。海の神様が、空まで面倒を見てくれ...

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像

先月の徳島県祖谷(いや)地方から「こんぴらさん」を巡る旅行の下調べをしていた時に、「こんぴらさん」の2体の仏像が海を渡って、「裸祭り」で名高い岡山県の西大寺観音院に安置されていることを次のサイトで知り興味を持った。http://www.geocities.jp/rekisi_neko/konpira.html どういう事情で、「こんぴらさん」の仏像が西大寺観音院に行ったのだろうか。 西大寺観音院の公式ホームページには「…明治維新のころ神国日本は古来...

四国霊場第37番札所岩本寺と高岡神社~~高知旅行2日目その2

坂本龍馬記念館から高知県高岡郡四万十町にある親戚宅に向かう。 「四万十町」という町は平成18年3月に高岡郡窪川町、幡多郡大正町・十和村が市町村合併によってできた町であるが、平成17年に中村市と幡多郡西土佐村が合併してできた「四万十市」とは異なる。大雑把な言い方をすると、四万十町は四万十川の上流地域を含み、四万十市は中・下流地域を含むのだが、四万十市の中に中村四万十町があったりしてややこしい。ついでに言う...

お寺に「神棚」がある不思議

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。 子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とす...

祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。 今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。 京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名...

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと

7月25日は日本三大祭りの一つである大阪天神祭の日で、随分久しぶりにこの祭りを見てきた。若かりし頃大阪市中央区の北浜で勤務していた時に、先輩から「祭りを見に行こう」と誘われて、船渡御を少し見てからすぐ飲み屋に向かった記憶がある。そんなことがもう一回くらいあったが、二回ともすごい人だかりで、遠くでいくつかの船が大川を進んでいくのがわずかに見えただけだった。その時は、仕事が終わってから天神祭を見に行った...

丹波篠山の重要文化財・天然記念物を訪ねて~~磯宮八幡宮と大国寺

24日の日曜日も天気が良かったのでまた田舎道をドライブしたくなった。 先週は亀岡だったが今度は丹波篠山を目指すこととして、事前に丹波篠山の国指定の重要文化財がどこにあるかを調べてみたところ全部で16あり、その内の6つは大国寺という天台宗の寺院にあることがわかったので、まずはその寺を目指すことにした。 吹田から一般道を走り池田から川西、猪名川につながる川西篠山線(県道12)を北上していく。 途中で磯宮八幡神社と...

野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行

以前、このブログで正岡子規の俳句を紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html「秋風や 囲いもなしに 興福寺」 阿修羅像で有名な奈良の興福寺は、明治の廃仏毀釈の時に僧侶130人が春日神社の神官となり、明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまで無住の地であったのだ。当時の奈良県知事が興福寺の土塀は「往来の妨げになる」との理由ですべて撤去させたという...

淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

淡路島の文化財を調べていると「東山寺(とうさんじ)」というお寺に平安時代の仏像13体が国の重要文化財に指定されているのが目にとまった。この13体の仏像の由来を調べると、明治の廃仏毀釈の時に京都の石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)から淡路島のこの地に遷されたという記事を見つけて興味を覚え、この目で見たくなった。 6月になって淡路島の鱧料理が旬を迎えたので、この東山寺や淡路島の面白そうなとこ...

奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方

奈良は国宝や重要文化財の宝庫である。 平成16年のデータでは奈良県の国宝数は205で、東京、京都に次いで多く、全国の国宝の19%が奈良県にあることになる。また奈良県の国指定重要文化財の数は1377で、全国の11%だ。www.bunka.go.jp/1hogo/excel/kokuho0430.xls しかし上のデータには美術館や博物館などが所蔵する美術品や書跡、古書などの数字がかなり含まれている。大きな博物館や美術館が多い東京や京都の数字が多いのは当然の...

三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3

旅行の2日目は、民宿をチェックアウトしてから、まだ走ったことのない「三方五湖レンイボーライン」を走ることにした。この道はカメラマンの須藤英一氏が選んだ『日本百名道』のうちの一つになっている道だ。http://blog.goo.ne.jp/adriveki/c/fce0a5a016f7afe0083accd5751a96a7 11.24kmの有料道路だが、カーブが多く、運転しながら景色を楽しむわけにもいかないので、3つある駐車場で車を停めて景色を楽しむことしかできなかった...

箸蔵寺から高知県唯一の国宝建造物・豊楽寺薬師堂などを訪ねて~~高知方面旅行1

以前このブログで、「こんぴらさん」で有名な香川県の金刀比羅宮は明治の廃仏毀釈以前は象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院であったことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html 松尾寺の守護神であった「金毘羅大権現」とは、インド仏教の神であり仏教守護の神であるのだが、明治の廃仏毀釈の時に御祭神を大物主神や崇徳天皇へとすり替えられてしまい、金刀比羅宮には「金毘羅大権現」は存在しない...

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2

香住で朝を迎えると、宿の主人から声がかかって「岡見公園」まで車で案内していただいた。「岡見公園」は名勝香住海岸から北に突き出た城山半島という岬の先端にある公園で、北に見える小さな島は白石島という名だそうだ。 春には桜が咲き、夏にはユウスゲという黄色い花が咲くこの場所は、5月から9月にかけて海に沈む夕日が楽しめるそうで「日本の夕陽百選」に認定されているという。一見穏やかそうな海に見えるのだが、北風の影...

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺

下の画像はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「清水寺」の絵である。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_171.html 下の画像が現在の伽藍配置である。「都名所図会」では上方向が北東で、現在の配置図は上方向が東に描かれていているのに注意して見て頂きたいのだが、「都名所図会」で左下に描かれている「子安塔」が、今では国宝・本堂(清水の舞台)...

住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺

前回の記事で清水寺が明治期の廃仏毀釈や上知令などでひどく荒廃したことを書いた。そのなかで、幕末以来住職不在であったことも触れたのだが、実は清水寺は幕末の頃からかなり荒廃していたらしいのだ。その頃の事情について、前回紹介した加藤眞吾氏の『清水寺の謎』には次のように記されている。(文章の中の「山内」は清水寺全体のことを指している。) 「…十九世紀初め頃の清水寺は、江戸時代に発達した商品・貨幣経済の波に翻弄...

なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の...

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか

前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹...

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ

前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃...

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて

白骨温泉で清々しい朝を迎えて、小鳥の囀りを聞きながら白濁した源泉かけ流しの温泉に浸かったあと、時間があったので宿の近くを20分程度散策した。旅館から県道300号線に出てしばらく歩くと江戸時代に湯治客の有志が建てたと言われている三十三観音がある。さらに進むと「竜神の滝」と呼ばれる滝があり、そこから遊歩道が整備されている。原生林の緑に囲まれた道を少しばかり歩くと、湯川が石灰岩を侵食してできた「隧通し(すいと...

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて

前回の記事で、苗木藩では徹底した廃仏毀釈が行われて、藩内の15ヶ寺全てが明治の初期に廃寺となったことを書いた。 今までこのブログで廃仏毀釈のことを何度か書いてきたが、苗木藩の廃仏毀釈は相当激しいものであったことを多くの人が指摘している。なぜ苗木藩のような小さな藩で、徹底した廃仏毀釈が行われたのだろうか。まずそのことについて考えることとしたい。12代藩主の遠山友禄(ともよし)は慶応3年(1867)6月まで幕府若年...

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて

さて、旅行の2日目に入るが、朝一番に向かったのは兵庫県豊岡市但東町にある但馬安国寺。紅葉の名所なので朝一番に向かったのだが、すでに大勢の観光客が来ていた。「安国寺」というと、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が京都天龍寺の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために各地に建てたと伝えられ、この但馬安国寺も全国に68ある安国寺のうちのひとつなのだが、いろいろ調べるとそれらの...

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと

前回の記事の最後に、おはらい町のなかに国の重要文化財に指定されている建物があることを書いたが、この建物の名前は「神宮祭主職舎本館」といい、明治の廃仏毀釈の時に廃寺となった「慶光院」という尼寺の境内地と建物を伊勢神宮が買い取り、明治5年(1872)に神宮司庁の庁舎となり、明治23年(1890)に神宮祭主職舎となって今日に至ったものである。伊勢神宮の御膝元である伊勢国(三重県)で廃仏毀釈が相当激しかったことは最近知っ...

大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3

水無瀬の滝と東大寺春日神社の後はサントリー山崎蒸留所に向かう。本当は予約が必要なのだろうが、当日でも時間待ちをすれば、サントリーウィスキー「山崎」の仕込から発酵、蒸留、熟成までの製造工程の見学ができ、さらにおつまみ付きで「山崎」や「白州」の試飲もできるし、時間の制約があるものの、おかわりも自由だ。結構歩いて汗をかいたあとにウィスキーを飲んで疲れをいやすという目的があったことは言うまでもないが、ここ...

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう

旅行の3日目は、長良川沿いの「ホテル石金」のチェックアウトを済ませて、最初に岐阜県安八郡神戸(あんぱちぐんごうど)町にある日吉神社(0584-27-3628)に向かった。ホテルからは18kmくらいの距離で40分もかからない。このブログで、今まで何度か明治初期に仏教施設が徹底的に破壊された「廃仏毀釈」のことを書いてきた。明治までは「神仏習合」があたりまえで、多くの有名な神社に仏像・仏具や仏塔が存在していたのだが、明治維新...

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが...

水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯

前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日...

寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府

嘉永6年6月3日(1853年7月)、ペリーが米大統領フィルモアの親書を携え、艦隊を率いて浦賀に姿を現わしてから1年半が経過した安政元年12月23日(西暦1854年1月)に、こんな太政官符が出ている事が、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に紹介されている。「それ外寇事情は、固より深く、宸襟を悩ませらるる*ところなり。…国家の急務、ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て、大砲、小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き、不慮に備えんと...

全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか

以前このブログで薩摩藩の廃仏毀釈のことを書いた。薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.htmlこのような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際...

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった

このブログで、岐阜県安八郡神戸(こうど)町にある日吉(ひよし)神社に三重塔が残されていることを先月書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.htmlこの日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂本の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられており、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社として発展したという。かつては「日吉」は「ひえ」と読み、比叡山を意味する...

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて

前回は慶応4年(明治元年1868)3月に神祇官から神仏分離令が出された直後に、神祇官の樹下重国らによって日吉大社の仏像仏具など数千点が破壊され焼却されたことを書いた。この日吉大社には行ったことがなかったので、滋賀県大津坂本から比叡山延暦寺に向かう日帰り旅行を企画して先日行ってきたのだが、結構見るべきところがあったので、今回はそのレポートをしたい。車などで行かれる方のために、私が訪れた場所の住所・電話番号な...

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2

以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられてい...

紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2

前々回の記事で、輪王寺が明治政府の神仏分離令で大揺れに揺れ、徳川幕府という大スポンサーを失った日光の百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らすことを余儀なくされ、80余名の僧侶たちは、満願寺(現在の輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたことを記したが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまった。その本坊の跡地が今は輪王寺の宝物館となっているようだ。最初に逍遥園に入ったのだが、この庭は本坊庭園の遺構で、江戸時代...

修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて

翌朝は雨が降っていたのだが、せっかく来たので朝食前に龍泉寺(りゅうせんじ:0747-64-0001)に出かける。伝承によると役小角(えんのおづぬ)が大峯山で修業中に洞川に降りて泉を発見し、「龍の口」と名付けて小堂を建て、八大龍王尊を祀ったのがこの寺の起源とされている。龍泉寺の境内には「龍の口」と呼ばれる泉から清水が流れ出ていて、大峯山に登る修験者達はここで水行して身を清めて、八台龍王尊に道中安全の祈願をして山に入...

高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて

前回の記事で『藤原京の聖なるライン』のことを書いた。すなわち壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路の延長線上にあり、そのライン上に天武・持統天皇陵や高松塚古墳・キトラ古墳など天武朝の皇族に関係する古墳が点在する。壺阪寺の後は、ほぼ聖なるライン上にある高松塚古墳を訪れるため、国立飛鳥歴史公園館(0744-54-2441)に向かう。飛鳥歴史公園は5地区からなり、その中心が高松塚周辺地区で、公園の入園料も駐車場料金も...