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しばやんの日々

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日本人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。 「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門...

県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。 県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり...

「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。ht...

西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。http://shibayan1954.blo...

明治維新と武士の没落

明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日本全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし...

「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き

前々回の記事で明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅したことに触れた。2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は20...

廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年...

大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすので...

明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった

前回記事で『維新前後の政争と小栗上野の死』という書物を紹介したが、著者の蜷川新氏の主張しているとおり、徳川幕府が大政奉還を廃止したのちに薩長がすぐに取組むべきことは封建的支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固める事であったはずだ。明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせた...

厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ...

明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったよう...