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しばやんの日々

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2

前回の記事で、イエズス会のフロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介した。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。 「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。  …兵士たちはかような動きがいったい何のためである...

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

歴史の定説では、「本能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」) また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名...

家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818外様大名に対しては、家康はこう述べたという。「…...

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペイ...

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯

前回の記事で、徳川家康は当初はキリスト教に比較的寛容であったことを書いた。寛容ではあったが、家康がキリスト教を信仰していたわけでもない。どちらかといえば警戒していたのだが、かといって秀吉の禁教令を棄てたわけでもなかった。ではなぜ家康は、当初はキリスト教に寛容であったのか。徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』でこう解説している。文中の「耶蘇教」というのはキリスト教のことである...

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣

前回の記事で、キリスト教に寛容であった徳川家康が、慶長17年(1612)に、幕府直轄地に対して急に禁教令を出して、翌年にはそれを全国に拡大して、長崎や京都にあった教会が破壊され、慶長19年(1614)には、多くのキリスト教徒が国外追放されたことを書いた。キリスト教の弾圧は豊臣秀吉の頃が最も激しかったとの印象を持っていたのだが、家康の時代にはどうだったのか。以前このブログで紹介した、大正14年に出版された山本秀煌(ひ...

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか

「治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。通称...

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって...

徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯

前回の記事で、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がいかにして政敵を排除して権力を掌握していったかについて書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、家康の政治スタンスをこう表現している。【徳川家康】「家康の眼中には、秀吉の遺言は勿論、いわゆる大老奉行等が血をもって誓うたる、秀吉の法度を守るべしとの起請文も廃紙同様であった。彼は随意に他の大名と誓約を取りかわした。彼はその子秀忠の妻を、随意に...

石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか

前々回の記事で、会津の上杉景勝に謀反の噂がたち、徳川家康は弁明のために上洛を勧告したのだが景勝はそれに応じず、そこで家康は上杉征伐の兵を集めて会津に向かい、その途中で石田三成が反徳川の大名を集めて挙兵したことを書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、徳川家康の会津征伐には三成の挙兵を誘う意図があったと書き、家康が当初より三成の挙兵を想定していたと判断する根拠についてこう記している。【...

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか

前回の記事で、石田三成を中心とする西軍は兵力で東軍を凌駕し、朝廷と秀頼を手にしており政治的に有利な立場にあって、充分に勝機があったにもかかわらず、三成の思惑通りに味方の武将が動かなかったことを書いた。そもそも天下を二分するような重要な戦いにおいて、もし敗れる側に着いたら、所領すべてを失うだけでなく一族や家臣の命の保証もない。どちらも烏合の衆であったことは同じなのだが、どの武将も勝つ可能性の高い側に...

関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き

前回の記事で、石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書状の一部を紹介したが、西軍の諸将の中には東軍と通じている武将が少なからずいたし、高い山に陣を取って、戦うためよりも身の安全を保つことを優先する武将もいた。この書状の中に、前回の記事で紹介しなかったが、非常に重要な部分がある。『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に紹介されている書状の該当部分を徳富蘇峰の解説とあわせて引用し...

関ヶ原の戦いの本戦で東西両軍はいかに戦ったのか

関ヶ原を東西に東山道*が貫通し、中央より西北に向かって北国街道、南東に向かって伊勢街道があり、関ヶ原の東には東山道と伊勢街道に挟まれて南宮山があり、東山道の南に松尾山が聳え、また北国街道の北には伊吹山から続く相川山があり、その山の麓に笹尾山と称する小山がある。*東山道:江戸時代に五街道が整備されて、東山道は、中山道、奥州街道などに再編された西軍の主力が大垣城を出て関ヶ原に向かったのは9月14日午後7時以...

石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが捕縛され京都で斬首されたこと

関ヶ原の戦いに大勝したとはいえ、西軍の首謀者である石田三成、宇喜多秀家、小西行長、安国寺恵瓊、島津義弘らの行方が不明であったので、徳川家康は、田中吉政にその捜索を命じている。【慶長年中卜斎記】最初に発見されたのは小西行長だが、家康の侍医であった板坂卜斎が記した『慶長年中卜斎記』に行長が発見された経緯などが記録されていて、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されて...

西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い

前回の記事で、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が処刑されたことを書いたが、大坂城には西軍の大将・毛利輝元が大軍とともにいた。もし輝元が家康と戦う意志があったなら、この城はそう簡単に抜ける城ではなかったはずだ。西軍の主将であった毛利輝元は大坂城で家康をどう迎えたのだろうか。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。「肝腎の輝元は、大坂における主将とは言いつつも、ほと...

誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記

近江八幡の中心地の観光を終えて安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦)に向かう。安土城は、織田信長が天下統一の拠点として、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて安土山に築城させた城である。上の画像は大阪城天守所蔵の「安土城図」で、現在は四方とも干拓されて陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれていたことがわかる。安土城の天守が完成したのは天正7年(1579)のことだが、その3年後の天正10年(1582)の6月2日に本...

長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて

毎年梅雨が明けた頃に車で旅行することにしているのだが、先日愛知県の新城(しんしろ)市を巡って来た。最初に向かったのは長篠城址(新城市長篠市場22-1 ☏0536-32-0162)である。長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上の天然の要害の地に、菅沼元成(もとなり)が今川氏の命を受けて永正5年(1508)に築いた城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち今川氏から松平氏の支配に移り、元亀2年(1571)に武田氏の支配に移り、天正元年(1573)に...

長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて

設楽原歴史資料館の駐車場から医王寺(新城市長篠字弥陀の前256)に向かう。長篠の戦いで、武田勝頼がこの寺に本陣を置いたとされ、境内には『武田勝頼公本陣跡』と記された石碑が建っている。新城市のHPによると、『三川日記』という文書に、武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に三千の兵を配置したことが記されているそうだが、山麓の医王寺境内地内には陣城と思われる遺構は確認されていないという。http://www....

現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1

滋賀県の甲賀と言えば「忍びの里」を思い浮かべる程度だったのだが、調べてみるとこの地域には貴重な文化財や伝統文化が残されているのに興味を覚えて、週末に日帰りで甲賀市の名所旧跡を巡って来た。最初に訪れたのは『甲賀流忍術屋敷』(甲賀市甲南町竜法師2331 ☏0748-86-2179)で、この住居は甲賀忍者であった望月出雲守の旧宅であり、現存する唯一の忍術屋敷だという。外見は一般的な平屋の日本建築で元禄時代に建てられた住居...