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しばやんの日々

『文明開化』における新旧風俗の大混乱

前回の記事で、戊辰戦争が一段落したあと大倉喜八郎が、これからはわが国で洋服の需要が急速に高まることを予見してイギリスの羅紗工場を私費で視察したことを書いたが、喜八郎が予見した通りにわが国に西洋の衣料品が急速に広まっていった。【急激な洋装の普及】それまでの日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化したのが明治の初期である。それまでの和装のままでも生...

『文明開化』で旧来の制度や習慣を西洋化しようとした政府と、それに抵抗した人々

【丁髷(ちょんまげ)を嘲笑した外国人】かつて日本男児にとって丁髷はかけがえのないものであったと思うのだが、外国人にとっては非常に滑稽なものとして目に映ったようである。前回記事で紹介した石井研堂著『明治事物起源』に、旧幕臣であった澤太郎左衛門のオランダ留学体験談が紹介されている。「文久二年九月、開陽丸の注文と留学のために、榎本釜次郎、澤太郎左衛門、内田恒次郎等、オランダ国に渡る。当時、頭様も野郎あたま...

『文明開化』施策という極端な欧化主義政策と日本の伝統文化破壊

前回の記事で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。『文明開化』の時代に、政府は日本土着の習俗や信仰などを「悪弊」「旧習」と呼び、彼らが無用無益と判断したものはどんどん破壊していったというのだが、同様なことを書いている本はいくらでも見つけることが出来る。例えば、歴史学者・斎藤隆三の著書にはこう記されている。「明治...

極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか

文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国に...

大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情

森有禮(もり ありのり)は弘化四年(1847年)に薩摩国鹿児島城下に生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所で英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに渡っている。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治維新後に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。【森有禮】森有禮...

反対勢力との戦いに孤軍奮闘し、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信

嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの記録に残されている。「小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子ども...

西洋流の立身出世主義教育を憂いた明治天皇と教育勅語

「文明開化」の名のもとに、明治初年のわが国で極端な欧化主義的な考え方が支配したことはこのブログで何度か書いてきた。わが国が近代国家として西欧の侵略主義に対抗するためには、西欧の技術や科学や文化などをそのまま取り込んで自分のものとして利用していくこともある程度は必要であったろう。しかしながら、昔からの伝統文化や風習などを否定して多くを破壊し、なんでもかんでも西洋のやり方をまねようとする政府のやり方に...

政府が欧風化を推進した文明開化の時代に、国産品を奨励した僧侶・佐田介石

技術進歩の激しい時代には、新技術をいち早く導入した者が、多くの人々の仕事を奪い取って失業させることになる。それはある程度やむを得ないものではあるのだが、その変化が激しすぎると各地で内乱が起こったりして治安が不安定となる。教科書などには何も記されていないのだが、明治政府の相次ぐ革新的な施策に反発していたのは武士だけでなく、農民や一般市民も同様であった。そのことは、このブログで何度も紹介している『新聞...