Welcome to my blog

しばやんの日々

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

歴史の定説では、「本能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」) また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名...

家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818外様大名に対しては、家康はこう述べたという。「…...

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政...

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2

以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられてい...

紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2

前々回の記事で、輪王寺が明治政府の神仏分離令で大揺れに揺れ、徳川幕府という大スポンサーを失った日光の百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らすことを余儀なくされ、80余名の僧侶たちは、満願寺(現在の輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたことを記したが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまった。その本坊の跡地が今は輪王寺の宝物館となっているようだ。最初に逍遥園に入ったのだが、この庭は本坊庭園の遺構で、江戸時代...

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話

昨年の秋に日光東照宮に訪れたレポートをこのブログに書いた際には紹介しなかったが、東照宮の陽明門を抜けて左に折れ、薬師堂の鳴き龍に向かう途中に、国の重要文化財に指定されている「オランダ灯籠」という銅製の大きな灯籠がある。この灯籠の由来を調べていると、浜田弥兵衛という人物がオランダという大国と堂々と渡り合った事件があり、その事件の解決の為にオランダが徳川幕府にこの灯籠を贈呈していることがわかった。国会...

島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。寛永15年(1638)5月2日に「一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/p...