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しばやんの日々

葵祭りの由来について

5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。 「都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html 絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉...

丹波に秋の味覚を求めて~~丹波栗の歴史と生産農家の危機

17日の日曜日は朝から秋らしい爽やかな天気で、秋の味覚を求めにちょっと車を走らせた。 摂丹街道(R423)を北に走ると、大阪府と京都府の境界線あたりから地元の農産物などが安く買えるところがいくつかある。 途中で朝市もあれば、農家が獲れたばかりの農産物を庭先で売っていたり、飲食店を経営しているところが野菜や果物を店先に並べていたりする。私が良くいくところはそういう場所だ。この近辺までくれば、店によって若干の価...

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

「日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。「日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に...

聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.htmlこの時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民...

蘇我氏は本当に大悪人であったのか

前回は、聖徳太子の業績とされていたことの大半が『日本書紀』作者の創作だとする説を紹介し、『隋書倭国伝』の記述を読むと遣隋使を派遣した時代の倭王は『日本書紀』では推古天皇(女王)であるが、『隋書倭国伝』では男王となっていて明らかに矛盾しており、『日本書紀』が嘘を書いている可能性が高いことなどを書いた。いつの時代もどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように書き換えてきたことを何度もこのブログで...

世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵」が誰の陵墓か分からなくなった経緯

大阪府堺市にある百舌鳥(もず)古墳群には、4世紀後半から5世紀後半に造られた47基の古墳が残されている。なかでも「仁徳天皇陵」は墳長486mもあり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられていると学生時代に学んだ記憶がある。現地にある「仁徳天皇陵」の説明版によると、「仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工...

聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。たとえば『もういちど読む山川日本史』の本文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については本文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進...

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2

学生時代に歴史を学んだ時に、「倭国」と「日本国」とは同じ国のことだと教えられてずっと鵜呑みにしてきたのだが、最近になって中国の正史である『旧唐書(ぐとうしょ)』*東夷伝では「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている事を知った。それぞれの位置関係を記した部分を中心に、現代語で内容を紹介したい。*『旧唐書』:中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書。完成は開運2年(945) 先ず「倭国」である。原文と読...

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3

前回の記事で中国の正史である『旧唐書』に「倭国」と「日本国」とは別の国として書かれていることを紹介した。そこには「倭国」は昔の倭の奴国であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。『後漢書』には倭奴国が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。『隋書』には阿蘇山のことが書かれている。普通に考えれば、「倭国」は九州...

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4

前回の記事で、『日本書紀』の「書」という文字は、日本列島の中に「日本国」とは別の有力な国家が存在していたことを意味しているという中小路駿逸氏の論文を紹介した。この論文を読むと、「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」という日本史の常識に、誰しも大きな疑問を持つことになるだろう。前回記事の最後に、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、...

法隆寺再建論争を追う

古代史の話題が続いて恐縮だが、今回は「法隆寺再建論争」のことを書くことにしたい。学生時代に法隆寺は世界最古の木造建築物だと学んだ記憶があるが、その法隆寺が再建されたものなのか、建立された当時のままなのかという議論が明治時代からはじまっていて、若草伽藍の発掘が終わって再建論が確定したかと思いきや、未だに議論が続いているようなのだ。では再建論と非再建論は何を根拠としているのだろうか。論争のことを書く前...

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか

以前このブログで、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いた。「播磨」は今の兵庫県の南西部にあたる地域のことである。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.htmlこのことは、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味しているのだが、どういうわけか『日本書紀』巻二十の重要な記録が日本史の通説で取り上げられることがないのだ。そこにはこう記されている...

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺

前回の記事で、わが国で仏教が拡がったのは、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国(兵庫県南西部)にいた恵便(えべん)という僧を師としたことから始まることが『日本書紀』に記されていることを紹介し、恵便ゆかりの寺として加古川市の鶴林寺を訪れたことを書いた。 実は7年ほど前にこの鶴林寺を訪れたことがあった。宝物館で貴重な展示物を見て、「凄い」とは思ったが、当時は「法隆寺よりも古い寺が兵庫県に在るはずがない」と...

紅葉の名所・養父神社と香住の帝釈寺を訪ねて

聖徳太子や恵便にゆかりのある寺を訪れたのち、兵庫県養父市にある養父(やぶ)神社に向かう。 養父神社は但馬では粟鹿(あわが)神社、出石(いずし)神社と並ぶ古社で、平安時代の延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には名神(みょうじん)大社「夜夫坐(やぶにいます)神社」と書かれているそうだ。 名神というのは、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、『延喜式』「神名帳」には日本全国で226社313...