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しばやんの日々

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。 天正1...

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2

前回の記事で、イエズス会のフロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介した。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。 「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。  …兵士たちはかような動きがいったい何のためである...

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。 本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の...

慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

日吉東照宮からケーブルの坂本駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂本4-6)という建物がある。慈眼堂の向かって左...

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある。秀吉配下の武士は武功を上げるために、...

南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2

前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。通説が正しいことを前提にすると「謎」に...

誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記

近江八幡の中心地の観光を終えて安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦)に向かう。安土城は、織田信長が天下統一の拠点として、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて安土山に築城させた城である。上の画像は大阪城天守所蔵の「安土城図」で、現在は四方とも干拓されて陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれていたことがわかる。安土城の天守が完成したのは天正7年(1579)のことだが、その3年後の天正10年(1582)の6月2日に本...