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しばやんの日々

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。 「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東...

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。 秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_taj...

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終え...

蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える

蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より...