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しばやんの日々

若草山の山焼き

奈良には何度か行ったが、今まで若草山の山焼きを見たことがなかった。遷都1300年の今年こそは見てみたいと思い、天気も良いので家内と二人で久しぶりに奈良に行ってきた。ちょっと奈良を歩こうと思って近鉄奈良駅に2時頃と早目に着いて、ひがしむき商店街、もちいどの商店街を抜けて、奈良町界隈を歩き、世界遺産の元興寺から春日大社に向かう。春日大社の本殿を参拝後、4時ごろに水谷橋付近の「茶亭ゆうすい」というところで早...

明治期の危機を乗り越えた東大寺

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何...

東大寺二月堂のお水取り

例年3月1日から14日まで行われる東大寺の二月堂の「お水取り」だが、一回り大きい松明が欄干に並ぶ12日の「お松明」や最終日は毎年凄い人らしい。今年は平城遷都1300年に当たり、バスツアーでの観光客も多く例年以上の人出が予想されている。「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の...

天平彫刻の宝庫、東大寺三月堂の解体修理

東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われたが、奈良時代の建物としては転害門(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)と三月堂(法華堂)が残されている。そして三月堂(法華堂)は東大寺大仏殿が建立された時代よりも前に建てられた東大寺最古の建物で、創建は天平12年(740)から19年(747)の間と言われている。東大寺は何度か行っているのだ...

東大寺大仏のはなし

東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グル...

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があ...

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を...

東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」

新薬師寺の国宝仏像を鑑賞した後、続けて天平時代の国宝仏像が見たくなった。 東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに...

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1

東大寺の有名な「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。この行事は過去一度も途絶えることなく続けられて今年は1260回目の「お水取り」が行われたことになる。この「お水取り」という行事の前に「...

後鳥羽上皇が愛した水無瀬の地を歩く~~水無瀬から大山崎歴史散歩2

櫻井の駅跡から西国街道を東に進み、途中で右折して水無瀬(みなせ)神宮に立ち寄る。水無瀬川と桂川が合流するあたりを「水無瀬」と呼ぶが、この地域は古くから山水の景勝に富む狩猟地として、多くの都人が来遊し、別荘を構えた場所である。そして水無瀬神宮の境内にはかつて後鳥羽上皇が造営した「水無瀬離宮」があったと伝えられている。『増鏡』は後鳥羽天皇の即位以降15代の150年の事績が記述されている歴史物語だが、その第1巻...