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しばやんの日々

高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて~~高知旅行1日目

四万十川上流の高知県高岡郡四万十町にある親戚宅を訪ねることになり、自分の車を使って家内と二泊三日で5月15日から四国を旅行してきた。 四国には10年ほど前にバス旅行で行ったのだが、1泊旅行だったので足摺岬と中村と桂浜を駆け足で巡っただけだった。今年に入って祖谷と金毘羅さんを巡ったことはこのブログでも書いたが、高知県内を車で走るのは初めてだ。5月15日、車で吹田の自宅を早朝に出て11時半ごろに高知城近辺に到着...

『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。なぜこんなに面白い本が焚書処分にされたのかと考えるのだが、おそらくは以前私が紹介した、「マリア・ルーズ号事件」のことを記述しているからなのであろう。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.htmlマリア・ルーズ号は南米ペルー船籍の船だが、明治5年(1872)に大量の中国人奴隷をアメリカに運...

自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯

自由民権運動の高まりに対抗して明治政府は集会条例を制定するなど民権派の活動を取り締まる一方、政府主導による立憲政治の実現にとりかかった。政府部内でも大蔵卿・参議の大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスをモデルとした議会中心の政党政治を行なうことを主張したが、岩倉具視、伊藤博文らはドイツ流の君主の権限の強い憲法制定をとなえて大隈と対立していた。明治14年(1881)に、開拓使官有物払下げを...

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう

前回は荘川桜のことを書いたが、この荘川桜の移植に興味を持ち、その一部始終をカメラに収めた佐藤良二という人がいた。佐藤氏は当時国鉄バスの名古屋から金沢を結ぶ「名金線」の運転手だったのだが、移植2年後の春に再び彼が荘川桜を見に来ると、お花見の最中に老婆が立ち上がり、桜の太い枝を抱えて突然声を上げて泣き出したのだそうだ。この出来事は佐藤氏の心に強く焼き付いて、彼は自分の走る沿線266kmを桜並木で結ぶことを決...

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政...

吉野の山村から明治という時代を動かした、森林王・土倉庄三郎を振り返る

明治40年(1907)に大阪朝日新聞社から出版された『人物画伝』という本があり、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、ネット上で誰でも読むことが出来る。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778156この本は、明治時代に活躍した国内外の政治家や実業家や文化人など97人の事績をまとめたもので、その当時の国民はほとんど知っている名前ばかりなのだろうが、今ではほとんど知られていない人物の名前が少なか...

激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五...

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた。大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退...

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。【新島八重】前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。Wikipediaによると会津藩の砲術師範であ...