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しばやんの日々

王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった

前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろ...

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府

前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず...

大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があっ...