「二・二六事件」と中国の「西安事件」に垣間見えるコミンテルンの影
前回の記事で、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を紹介し、当時コミンテルンが立てていた戦略は、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占めることであったことを書いた。このコミンテルン大会の後でわが国と中国で起こった事件を調べてみると、不可解でかつ重大な出来事が相次いでいることに気が付く。 先に中国側の出来事から見て行こう。まず、...
中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
前回の記事で昭和11年(1936)の8~9月ごろになって、抗日テロが至る所に起こった経緯について書かれた長野朗氏の『民族戦』の文章を紹介した。今回はその続きである。 長野氏の著書によると、この年の11月に起こった『綏遠問題』によって、中国の抗日運動がピークに達したのだという。この『綏遠問題』とは何か。 長野氏の文章と西尾氏の解説を参考にまとめることにする。 「綏遠」というのは内蒙古にある省の名前で、そこに徳王と...
当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
前回まで4回に分けて、GHQに焚書処分された長野朗氏の2つの著書の文章を当時の新聞記事とあわせて紹介したが、戦前の日本人の文章や新聞記事は信用できないという人も少なくないだろう。そこで、今回はアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ氏が1938年(昭和13年)11月に著した、”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』:芙蓉書房出版)という書物を紹介することにしたい。この本の...
蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
前回の記事で、1938年にアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)という本の中から、中国が「排日」に至った背景から「通州事件」に至る部分を紹介した。この「通州事件」は誰が考えても重大事件であり、このように日本人が大量に虐殺されるような事件がなければわが国が戦争に巻き込まれることはなかったと私は考える。この事件に...
プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
前々回から紹介している”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の著者であるフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズはサンフランシスコの新聞社の記者であった頃に東洋からアメリカのチャイナタウンに向かう暗黒街の麻薬ルートの情報を追及していたことがあり、彼によると蒋介石はかつて阿片の最大の取引をしていた実績がある人物だったという。1937年から翌年にかけて、その蒋介石が「排日」活動でアメリ...
ルーズベルトはなぜ黄色人種の中国を連合国陣営に残そうとしたのか~~米国排日11
「米国排日」シリーズの最初の記事で『昭和天皇独白録』の冒頭の文章を紹介した。 「大東亜戦争の遠因この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然存在し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。…かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、これを抑えることは容易な業ではない。」(...
「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
前回の記事でルーズベルト米大統領が、蒋介石の中国を連合国陣営に戦略的に残したことを書いた。以前にも蒋介石に関する記事は「中国排日」シリーズで何度か書いたが、この男がどういう人物であったかを知るうえで欠かせない事件の顛末を書き記しておきたい。1938年(昭和13年)6月に黄河の堤防が決壊し、津波のように流れ出した大量の水が周囲の都市や田畑を襲い多くの人々が死亡する大災害が起こったのだが、この災害は自然災害で...
蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
以前このブログで、フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)という本の内容を紹介したことがある。中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実 [ フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ ]その本の中で、蒋介石にはドイツの軍事顧問団がついていて、その顧問団が蒋介石に対して、日本に対しては単独では勝てないので外国に干渉させるように仕向けることをアドバ...
『ポツダム宣言』を受諾したわが国は、連合国に「無条件降伏」したのか
1945年8月14日、日本国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、9月2日に降伏文書に調印した。 学生時代には「太平洋戦争はわが国が連合国に無条件で降伏した」と学んだ記憶があるし、テレビの解説などで「無条件降伏」という言葉を何度も聞いたと思うのだが、最近のわが国の高校教科書ではそう書かれていないことに気がついた。例えば『もういちど読む山川日本史』では、 「8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天...
南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸...
日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか
前回の記事で、蒋介石は上海戦に続く南京戦に勝算がないことは承知しており、南京陥落の後に日本軍の暴行を世界に宣伝し、武力戦で負けても宣伝戦で勝つという国策に立っていたことを書いた。蒋介石総統および政府・軍部の首脳は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡したのだが、これも予定の行動であったと思われる。というのは、無責任にも南京から逃亡した唐生智は、その後栄転して中国国民党...
関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える
前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であること...