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しばやんの日々

「牛若丸と弁慶の物語」の虚構

前々回に、三国の事を書いた。そこで毎年5月20日に行われる福井県指定無形民俗文化財である三国祭の明治時代の山車を紹介したが、この人形は「牛若丸と弁慶」であることは日本人なら誰でもわかる。弁慶は太刀千本を奪い取ろうと誓い、夜毎に通行人を襲ってはその刀を奪っていき、ついに999本に達した。最後の1本を奪い取るために京都の五条大橋で待ち構えていたが、そこへ通りかかったのが牛若丸(後の源義経)で、五条の橋の上で一...

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。 豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかった...

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。 秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.htmlこの人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記など...

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。 「薩摩軍が豊後で捕...

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。 「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。それよりも...

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を...

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。 「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東...

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。 秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_taj...

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終え...

東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史

ネットで古い写真を探していると、明治13年(1880)に撮影された京都名所の写真集に遭遇した。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_001_1.html 国際日本文化研究センターのサイトにいけば誰でもこの写真集を見ることが出来るのだが、そこに写っている写真は私も何度か行ったことがあるようなお寺や神社のものが大半だ。写真を見てどこを撮影したものかはある程度見当がついたのだが、この写真だけは少なから...

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。 天正1...

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。 本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の...

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日本史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・食糧を運びながら、な...

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要があ...

慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

日吉東照宮からケーブルの坂本駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂本4-6)という建物がある。慈眼堂の向かって左...

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある。秀吉配下の武士は武功を上げるために、...

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える

前々回の記事で、1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したことを書いた。渡航先は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国であったのだが、それらの地域には多くの日本人が移り住んで日本人町ができたという。「移り住んだ」と書くと、如何にも日本人全員が自分の意志で海外に渡っていった印象を受けるのだが、もう少し正確に言うと、少なから...

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。当時わが国に滞在してい...

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉

前回の記事で1584年にイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、日本のキリシタン大名を用いて中国を征服して植民地化することをスペイン国王に提案していたことを書いたが、同様な宣教師の当時の記録はいくつも存在する。日本史の歴史教科書には何も記されていないのだが、スペインが1571年にフィリピンを征服した(「フィリピン」と言う地名はスペイン国王フェリペ2世に由来する)。スペインは16世紀前半にアステカ文明、...

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える

前回の記事で豊臣秀吉が、スペインの植民地であるフィリピンの太守のダスマリナスに対し、3度にわたり降伏勧告状を送ったことを書いた。フィリピンでは、秀吉の3度目の降伏勧告状に対する返事をどうするかで議論があったようだが、協議の結果このような返事を提出することになったという。「親和関係の継続は閣下の希望し給うところなるを知り、大いにわが本懐に適えり。なんとなれば閣下もわが国王も共に大なる者なり。よってその...

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって...

戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由

学生時代に、応仁の乱ののち下剋上の風潮が生まれて、諸国には実力によって領地を支配する大名が次々と生まれて互いに争う時代になったと学んだのだが、なぜこのような戦争を繰り返す世の中になったのかが良く分からなかった。戦国時代の軍隊の大多数は足軽で、彼らのほとんどは農民で戦争のたびごとに駆りだされていたというのだが、農業という重要な仕事を持ちながら、多くの農民が戦いに参加したのはなぜなのか。小説やドラマで...

農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受け...

刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担...

蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える

蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より...

戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。上の画...