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しばやんの日々

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか

明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定したのだが、その御前会議が終わった後の夕刻6時に、枢密院議長・伊藤博文は、金子堅太郎を官舎に呼び寄せて、「これから直ぐにアメリカに行ってもらいたい」と告げたという。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に金子堅太郎本人が口述した『日露戦役秘録』という本が公開されているが、この時の金子堅太郎と伊藤博文の会話を読んでいると、この時期のわが国の状...

なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか

前回の記事で、日露戦争開戦を決断した直後に伊藤博文がセオドア・ルーズベルト米大統領と親しい金子堅太郎を呼んですぐに渡米することを強く要請し、実際に金子がアメリカに渡り大統領に会うと、米大統領が「今度の戦いは日本が勝つ」と明言したことに金子が驚いたことを書いた。大統領は日本が勝利する理由を詳細には述べなかったが、参謀本部や海軍兵学校長に日露の戦力や様々な情勢を詳細に調べた上での結論のようなのだが、で...

鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた

前回の記事で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するために、明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治16年(1883年)11月28日に落成した建物であるのだが、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞すことになる。【尾崎行雄】鹿鳴館外交を批判し...