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しばやんの日々

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える

前回の記事で、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスが、太閤秀吉の言葉として「商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している」と記していることを書いた。またシャム国では、日本人武士を買って傭兵として用いる強いニーズがあり、山田長政はその日本人傭兵部隊を率い...

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える

元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国...

徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き

江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインやポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が...

島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか

島原の乱が、単純な百姓一揆とは異なる重大事件であったことは前回まで縷々記してきたが、では江戸幕府は、大量の鉄砲と弾薬を持って立て籠もった「一揆勢」をどうやって鎮圧したのであろうか。前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊本藩主・細川忠利らから批判があったようだ。しかし、熊本藩の...

島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル

前回の記事で江戸幕府は、島原の乱の「一揆勢」のバックに外国勢力がいると考え、その国はポルトガルであるとしていたことを書いた。だからこそ江戸幕府は天草四郎の首を、長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのである。実際に島原の乱の「一揆勢」がどこの外国勢力と繋がっていたかどうかについては、ポルトガル側には決定的な史料はないようなのだが、江戸幕府がそう判断していたこ...

島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。寛永15年(1638)5月2日に「一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/p...

江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した

Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BDこの記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ...

シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所...