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しばやんの日々

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペイ...

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか

「治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。通称...

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか

前回の記事で、石田三成を中心とする西軍は兵力で東軍を凌駕し、朝廷と秀頼を手にしており政治的に有利な立場にあって、充分に勝機があったにもかかわらず、三成の思惑通りに味方の武将が動かなかったことを書いた。そもそも天下を二分するような重要な戦いにおいて、もし敗れる側に着いたら、所領すべてを失うだけでなく一族や家臣の命の保証もない。どちらも烏合の衆であったことは同じなのだが、どの武将も勝つ可能性の高い側に...

関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き

前回の記事で、石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書状の一部を紹介したが、西軍の諸将の中には東軍と通じている武将が少なからずいたし、高い山に陣を取って、戦うためよりも身の安全を保つことを優先する武将もいた。この書状の中に、前回の記事で紹介しなかったが、非常に重要な部分がある。『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に紹介されている書状の該当部分を徳富蘇峰の解説とあわせて引用し...

関ヶ原の戦いの本戦で東西両軍はいかに戦ったのか

関ヶ原を東西に東山道*が貫通し、中央より西北に向かって北国街道、南東に向かって伊勢街道があり、関ヶ原の東には東山道と伊勢街道に挟まれて南宮山があり、東山道の南に松尾山が聳え、また北国街道の北には伊吹山から続く相川山があり、その山の麓に笹尾山と称する小山がある。*東山道:江戸時代に五街道が整備されて、東山道は、中山道、奥州街道などに再編された西軍の主力が大垣城を出て関ヶ原に向かったのは9月14日午後7時以...

関ヶ原の戦いの後の佐和山城と大垣城の落城

前回の記事で慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いの本戦の流れについて記したのだが、西軍は敗れたとはいえ石田三成、宇喜多秀家ほか多くの諸将は敗走して生き延びている。また大坂城や大垣城や佐和山城などには西軍の将兵が無傷で多数残っていたのだから、この日の「関ヶ原の戦い」だけで東西両軍の争いが完全に決着したとは考えにくいところである。しかしながら、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には...