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しばやんの日々

日本の歴史を変えた紀伊大島の人々

前回はエルトゥールル号事件のことを書いたが、その事件の4年前の1886年10月24日に、やはり紀伊大島で日本の歴史を変えるきっかけとなったノルマントン号の遭難事件が起こったことも書いておきたい。この事件を最初に発見したのは紀伊大島樫野崎灯台の灯台守と記録にあるので、遭難場所はエルトゥールル号の遭難場所にかなり近かったはずである。記録によると発見した灯台守の連絡により百四十人余りの漁師がただちに海に乗り出し...

陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について

引き続き条約改正に関する記事を続ける。前回の記事に関する補足だが、わが国の悲願であった条約改正を成功させる寸前まで来た大隈重信の交渉を、振出しに戻した背景には何があったのだろうか。早稲田大学名誉教授の木村時夫氏は『日本における条約改正の経緯』のなかで、この背景についてこう解説しておられる。「…当時の日本国民は井上案と大隈案とを仔細に比較検討することをせず、外国人判事任用の一点だけを取上げ、それを国...

日清戦争で日本軍は、陸も海も連戦連勝だった

明治27年(1894)7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦の秋津洲(あきつしま)、吉野と浪速(なにわ)の三鑑が、会合予定であった巡洋艦の武蔵と八重山を捜していたところ、突然、清国巡洋艦の済遠(サイエン)と広乙が海上にあらわれた。この段階では日清両国で互いに宣戦布告は出されていなかったが、わが国が7月19日に突きつけた5日間の猶予つきの最後通牒への返答がないまま期限が切れており、法的には戦争状態に入っていた。...

三国干渉に直面したわが国の外交交渉はいかなるものであったのか

世界の予想を裏切ってわが国は清に圧勝し、講和談判が下関で行われて、明治28年(1895)4月17日に講和条約(下関条約)が調印された。この条約によって清国はわが国に①朝鮮の独立②遼東半島・台湾・澎湖島の割譲③賠償金2億両(テール:当時の日本円で3億1000万円)の支払いなどを認め、わが国は戦勝の喜びに沸いたのだが、清国ではその逆で囂々たる反対で沸き返ったという。中村粲(あきら)氏は清国の動きを著書でこう述べている。「例えば...