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しばやんの日々

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。 豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかった...

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を...

1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて

昨年の秋に「素晴らしい紅葉の古刹を訪ねて」という記事を書いて、大阪の茨木市の山奥にある大門寺という寺を紹介した。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-111.htmlこの大門寺を開いたのは桓武天皇の異母兄である開成皇子(かいじょうおうじ724-781)だが、開成皇子は天皇家の直系男子でありながら、正史である「続日本紀」には全く現れず、「元亨釈書」(日本最初の仏教通史:元享2年[1322]成立)、「本朝高僧伝」(元禄...

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。当時わが国に滞在してい...

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯

前回の記事で、徳川家康は当初はキリスト教に比較的寛容であったことを書いた。寛容ではあったが、家康がキリスト教を信仰していたわけでもない。どちらかといえば警戒していたのだが、かといって秀吉の禁教令を棄てたわけでもなかった。ではなぜ家康は、当初はキリスト教に寛容であったのか。徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』でこう解説している。文中の「耶蘇教」というのはキリスト教のことである...

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣

前回の記事で、キリスト教に寛容であった徳川家康が、慶長17年(1612)に、幕府直轄地に対して急に禁教令を出して、翌年にはそれを全国に拡大して、長崎や京都にあった教会が破壊され、慶長19年(1614)には、多くのキリスト教徒が国外追放されたことを書いた。キリスト教の弾圧は豊臣秀吉の頃が最も激しかったとの印象を持っていたのだが、家康の時代にはどうだったのか。以前このブログで紹介した、大正14年に出版された山本秀煌(ひ...