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しばやんの日々

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~ その1

先日友人と飲んでいたら、たまたま坂本龍馬の暗殺に誰が関わったかが話題になった。友人は私の知らない話をいろいろ披露してくれて少し興味を覚えたので、龍馬の暗殺事件についてちょっと調べてみた。坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋の二階で暗殺されたのは慶応三年(1867)11月15日だが、誰が殺したかについては当時から諸説がある。 当初は新撰組が疑われていたが、後に京都見廻組の佐々木只三郎外数名であるとし、龍馬を斬った...

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2

前回は、坂本龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組の可能性が高いことと、黒幕がいるとする諸説の中で薩摩藩黒幕説について書いた。今回は別の黒幕説を書こう。龍馬の出身である土佐藩にも、黒幕とされている人物がいる。良く名前が出てくるのは後藤象二郎だ。大政奉還のアイデアは龍馬のものであることは今では多くの人が知っているが、当時土佐藩参政であった後藤象二郎は、龍馬が発案した策をそのまま受け入れて、藩主山内容堂の承認を...

幕末の孝明天皇暗殺説を追う

前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。 「幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html もちろんリストの中には...

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方

高知市の坂本龍馬記念館に、妻・お龍の若い頃の写真と晩年の写真が拡大されて展示されていた。この写真はネットでも容易に見つけることが出来る。この若い頃の写真は、龍馬の京都での定宿で暗殺現場ともなった「近江屋」の主人(井口新助)のご子孫の家で、昭和54年に見つかった写真を複写したものだそうだ。ちょっと痩せているが、今でも充分「美人」で通用する女性と思われる。この写真は、傍らの洋風の椅子、背後の壁などから、明...

お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分

前回は龍馬が亡くなってからのお龍の人生を辿ってみた。お龍が坂本家からも海援隊メンバーからも嫌われていたことから、お龍の人生があのような淋しいものになったのはお龍の性格に問題があったのだとは思うが、お龍自身が坂本家についてどう語っているかも知りたくなった。ネットで「わが夫坂本龍馬」(一坂太郎著:朝日選書)という本を取り寄せて読んでみた。この本には、安岡秀峰が晩年のお龍から聴取した回顧談をまとめた「反魂...

龍馬の二番目の姉・栄はなぜ「龍馬伝」に出てこなかったのか

今年の五月に高知方面を旅行したときに、龍河洞の帰りに「龍馬歴史館」を訪ねて、坂本龍馬の一生の出来事を蝋人形で再現させた展示物を見てきた。その中で、「龍馬脱藩・姉栄の自殺」という展示があった。 姉の栄が刃物で自殺をしようとする人形で、解説にはこう書いてあった。 「…兄の権平は龍馬の不穏な空気を怪しみ、万一過激な行動を取ったら家を危うくする恐れがあると心配して龍馬から刀を取り上げ『龍馬が何を言ってきても...

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3

以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったのは今井信郎だというのが定説になっていることを書いた。しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。どちらが正しいのだろうか。明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞...

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」)前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。 「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉...

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。 改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸...

メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。 今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプ...

教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。 この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。 「…日本における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでし...

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4

慶長遣欧使節は日本人が初めてヨーロッパの国を訪れて外交交渉をし、1615年1月30日にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見したのだが交渉は成功せず、支倉常長は、ソテロをフィリピンに残したまま、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。 伊達政宗は常長から遣欧使節の絶望的な報告を聞いたはずなのだが、記録は何も残されていない。 支倉常長が日本を出発した慶長18年9月15日(1613...

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。 子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件...

赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2

前回の記事で赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはど...

赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3

吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回の記事で書いた。 当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政...

江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4

赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm 「東下りの関所においても無事であり、心配していたこ...

赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5

赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htmそれによると、 「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死...

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国

前回の記事で、GHQ焚書である菊池寛の『大衆明治史』に書かれている文章を紹介した。 今回は、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消された文章を紹介しよう。アメリカのメリーランド大学にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫といってGHQの検閲官が検閲したゲラ原稿の資料が持ち帰られて保存され、マイクロフィルム化されて誰でも自由に閲覧ができるようになっているそうだ。このプランゲ文庫を5年間にわたり...

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4隻の軍艦が、江戸湾入口の浦賀の沖に姿を現した。ペリーは何のためにわが国に来たのか。市販されている高校教科書『もう一度読む山川日本史』にはこう書かれている。 「そのころアメリカは、北太平洋での捕鯨や太平洋を横断して中国にいたる新しい貿易ルートを開拓するために、日本の港で食料や燃料を補給する必要を感じていた。このため上陸したペリーは、開国と...

幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し強硬な態度で幕府に開国を迫り、翌年にその圧力に屈して日米和親条約を締結し、寛永16年(1639)以降200年以上続いた鎖国体制は終りを告げた。その後、和親条約により下田に駐在したハリスの強い要求に応じて、江戸幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約に調印した。この幕府の決定が反対派の公家・大名や志士達を憤激させた。大老の井伊直弼...

「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。そ...

幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか

学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述はいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明を鵜呑みにした記憶がある。Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。 「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸...

討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る

前回の『ええじゃないか』騒動の記事で、岩倉具視らの陰謀により、慶応三年(1867)十月十三日、討幕派の薩長両藩に『討幕の密勅』が下ったことに少しだけ触れておいた。 武力討幕派の薩摩長州両藩にとっては、もし将軍徳川慶喜が土佐藩の建白による大政奉還を決断するとなると武力で幕府を倒す大義名分がなくなってしまうばかりか、新政府の主導権を土佐に奪われかねないことになる。そこで、朝廷より「討幕の密勅」を受けて、武力...

「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」である。この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習しておこう。 安政5年(1858)4月に大老職に就いた彦根藩主・井伊直弼は、幕府の権威を復活させようとし、勅許をえないまま6月に日米修好通商条約に調印し、また、子供のいない十三代...

シーボルトと日本の開国

ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時であった。彼は、来日した翌年に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義をし、高野長英、二宮敬作、伊藤玄朴ら、多くの弟子を育て、文政9年(1826)にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、将軍徳川家斉に謁見したほか、最上徳内や高橋景保ら多くの学者と交流したという。そのシーボルトが文政11年(1828年)9月、所...

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。『寄合町諸事書上控』という古...

シーボルトはスパイであったのか

シーボルトがスパイであったというのが多数説になっているのだが、いろいろ調べていくとシーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草しているという。わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとし...

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか

シーボルトと同様にオランダ商館付の医師として出島に滞在し、離日後わが国のことを書物に著した人物は何人かいる。エンゲンベルト・ケンペル(1651~1716)は、1690年(元禄3)に来日し出島に約2年間滞在の後、1691年と1692年と連続して江戸参府を経験し、将軍徳川綱吉にも謁見している。 日本に滞在中に多くの資料を収集し、1692年に離日して1695年にヨーロッパに戻り、彼の遺稿となった『日本誌』が1727年にロンドンで出版されてい...

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか

文久2年(1862)8月21日、4人の英国人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇した。その時英国人は騎乗のまま行列を横切ろうとし、薩摩藩士はこれを止めようとしたにもかかわらず、それを無視してそのまま進んだので、激昂した藩士が英国人に斬りかかり、1人が死亡し2人が負傷したという事件があった。世に言う「生麦事件」である。学生時代にこの事件のことを学んだ時は、当時は攘夷の気運が高まり外人殺傷事件がしばしばおこり、...

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうな本を探す。「薩英戦争」...

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった

前回は、文久3年(1863)の薩英戦争は、英国艦隊が錦江湾に停泊していた数隻の汽船を拿捕したことから、薩摩軍が砲撃を開始したことを書いた。薩摩軍が砲撃を開始したなら、英国軍も直ちに砲撃を開始すると誰でも思うところだが、英国軍がすぐに始めたのは、拿捕した汽船内に入って金目のものを掠奪することだった。その汽船は、英国が薩摩に要求していた賠償金よりもはるかに高価な汽船であったようだが、交戦命令が出ているのにも...

家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818外様大名に対しては、家康はこう述べたという。「…...

松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口をとらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思いやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛の巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をく...

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペイ...

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯

前回の記事で、徳川家康は当初はキリスト教に比較的寛容であったことを書いた。寛容ではあったが、家康がキリスト教を信仰していたわけでもない。どちらかといえば警戒していたのだが、かといって秀吉の禁教令を棄てたわけでもなかった。ではなぜ家康は、当初はキリスト教に寛容であったのか。徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』でこう解説している。文中の「耶蘇教」というのはキリスト教のことである...

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣

前回の記事で、キリスト教に寛容であった徳川家康が、慶長17年(1612)に、幕府直轄地に対して急に禁教令を出して、翌年にはそれを全国に拡大して、長崎や京都にあった教会が破壊され、慶長19年(1614)には、多くのキリスト教徒が国外追放されたことを書いた。キリスト教の弾圧は豊臣秀吉の頃が最も激しかったとの印象を持っていたのだが、家康の時代にはどうだったのか。以前このブログで紹介した、大正14年に出版された山本秀煌(ひ...

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える

前回の記事で、慶長18年(1613)に全国に出された禁教令で、各地で追放処分を受けたキリスト教信徒たちの多くは長崎に避難して、長崎では教会が復活しミサも行なわれるようになったことを書いた。家康は、晩年にはキリスト教に対し比較的厳しい態度をとったのだが、日本人信徒に対しては厳しくとも、外国人に対してはどちらかというと寛大であった。その理由は、家康自身が外国貿易のメリットを捨てきれなかったからであろう。ところ...

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える

元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国...

徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き

江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインやポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が...

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した

前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキ...

島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか

前回の記事で、島原の乱は年貢の減免を求めて農民たちが蹶起したのではなかったことを書いた。乱を主導したのは小西行長の遺臣たちで、代官のもとに押しかけた農民たちは、自分達は元のキリシタンに戻ると宣言し、他の村々や周囲の人々にも、キリシタンに戻ることを迫り、寺社に放火し、僧侶や神官を殺害するなど、宗教色の強いものであった。厳密に言うと、島原では慶長19年(1614)に松倉重政が入封し、以降のキリシタン弾圧により...

島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか

前回の記事で、島原の乱の「一揆勢」が短期間のうちにキリシタンに立ち返り、社寺を破壊し僧侶や神官を殺害した経緯は、キリスト教の教義にある「最後の審判」と関係がありそうなことや、彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも江戸幕府はそのように考えていたことなどを書いた。「一揆勢」が原城に籠城して3カ月も持ちこたえることができたのは、彼らが武器と弾薬を大量...

島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか

島原の乱が、単純な百姓一揆とは異なる重大事件であったことは前回まで縷々記してきたが、では江戸幕府は、大量の鉄砲と弾薬を持って立て籠もった「一揆勢」をどうやって鎮圧したのであろうか。前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊本藩主・細川忠利らから批判があったようだ。しかし、熊本藩の...

島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル

前回の記事で江戸幕府は、島原の乱の「一揆勢」のバックに外国勢力がいると考え、その国はポルトガルであるとしていたことを書いた。だからこそ江戸幕府は天草四郎の首を、長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのである。実際に島原の乱の「一揆勢」がどこの外国勢力と繋がっていたかどうかについては、ポルトガル側には決定的な史料はないようなのだが、江戸幕府がそう判断していたこ...

島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。寛永15年(1638)5月2日に「一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/p...

江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した

Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BDこの記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ...

シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所...

田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか

学生時代に田沼意次(たぬまおきつぐ)を学んだ時に、「賄賂政治」をしたなどと書かれていてあまり良いイメージを持っていなかったのだが、最近では田沼時代が評価されてきているようだ。たとえば一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』を読むと、昔の教科書とは異なる書き方になっていることに気付く。「…10代将軍家治は直接には政治を指導せず、この時代に権勢をふるったのは田沼意次であった。意次は600石の小身...

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか

天明4年(1784)3月24日、田沼意次の長男である田沼意知(おきとも)が江戸城内において、新番組の佐野政言(さのまさこと)に斬りつけられ、その8日後に死亡している。田沼意知は天明3年(1783)に若年寄に抜擢され、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、34歳という若さで命を奪われてしまった。Wikipediaにはこの暗殺事件について、こう記されている。「江戸市民の間では佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判...

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか

前回の記事で、戦国時代にキリシタンによって多くの社寺仏閣や仏像等が破壊され、また多くの日本人が海外に奴隷に売られて行った背景には、異教国や異教徒に対してそのような方法で異教徒の世界を破壊してキリスト教世界を拡げることが、ローマ教皇による教書で認められていたことが背景にあることを書いた。たまたまこの時代はわが国に優良な武器が大量に存在し、またわが国の為政者がキリスト教の宣教師が侵略の手先であることを...