「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
前々回に、三国の事を書いた。そこで毎年5月20日に行われる福井県指定無形民俗文化財である三国祭の明治時代の山車を紹介したが、この人形は「牛若丸と弁慶」であることは日本人なら誰でもわかる。弁慶は太刀千本を奪い取ろうと誓い、夜毎に通行人を襲ってはその刀を奪っていき、ついに999本に達した。最後の1本を奪い取るために京都の五条大橋で待ち構えていたが、そこへ通りかかったのが牛若丸(後の源義経)で、五条の橋の上で一...
「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1
学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役で...
熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2
前回は、蒙古軍が最初に日本を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日本側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからでは...
「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3
前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日本の史料を読む限りは考えにくいということだ。では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日本に来たのかずっと疑問...
源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか
源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で幼名を牛若丸と呼ばれ、父の源義朝が敗死した後に鞍馬寺に預けられ、その後奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護をうける。兄の頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で活躍し、平氏を滅ぼした最大の功労者であるのだが、その後頼朝と対立して朝敵とされ、再び義経は藤原秀衡を頼って奥州平泉に赴いた。しかし、義経を匿っていた秀衡は文治3年(1187)10月2...
謎に包まれた源頼朝の死を考える
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の目次を見ると、建久七年(1196)から建久九年(1198)年の記録がないことがわかる。厳密にいうと建久六年(1195)の十二月二三日から建久十年(1199)の二月五日までの3年以上の長きにわたり、『吾妻鏡』には何も記録がないのである。http://adumakagami.web.fc2.com/aduma00-00mokuji.html 『吾妻鏡』に記録のない年は他にもあるのだが、これだけ長い間にわたり記録がないのは、この期間だけである。 上...