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しばやんの日々

武士であることを捨てた弓の名人、那須与一

元暦2年(1185)2月19日、平家軍は四国屋島の入江に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えるも、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、陸から大軍が来たかに見せかけて浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけた。世にいう「屋島の戦い」の始まりである。平家軍は船で海に逃れるも、源氏の兵が少数であることを知り、態勢を立て直した後、海辺の源氏と激しい矢戦となる。 夕暮れになって休戦状態となると、沖から一層の小舟が近づき、見る...

栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。 道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を...

菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

「菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。 菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、次のサイトの記事では3,953社なのだそうだ。http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/gb01-8.htm 「...

桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。 「長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は...

伝説の美女・小野小町とその後の伝承

紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。たとえば五人目の小野小町についてはこ...

源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える

前回の記事で天長8年(831)から桜の花見が天皇主催の定例行事として宮中で行われるようになったことを書いたが、一度決められた「花宴」はその後も毎年のように行われて、以降1200年分もの京都の花見の記録が残されているのだそうだ。花見が行なわれる日はほぼ満開に近い時期と考えられるので、記録されている日付すべてを太陽暦に読み替えて、時代ごとの気候変動を調べる研究が戦前から続いているのだという。【伊勢物語絵巻八二段...

大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか

前回の記事で、源頼朝や木曽義仲が平氏打倒のために挙兵した治承4年(1180)は大干ばつのために西日本は大凶作となり、平氏は関東に追討軍を送り込んだものの、10月の富士川の戦いでは平氏軍は兵粮不足で逃亡者が続出し、まともに戦える状況ではなかったことを書いた。【「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)】その翌年の治承5年(1181)は、閏2月に平清盛が没した後、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)に...

源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか

前回の記事で、平氏軍も源氏軍も兵粮が不足していて、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したり、穀物を刈り取ったりしたことを書いた。しかしながら、西日本では治承四年(1180)から干ばつのために凶作が二年続き、京では餓死者が道にあふれるほど食糧の絶対量が不足していた。街道筋にある村々にとっては彼らの食糧を守ることは家族の生死にかかわる大問題であったのだ。では、彼らはど...