天平彫刻の宝庫、東大寺三月堂の解体修理
東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われたが、奈良時代の建物としては転害門(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)と三月堂(法華堂)が残されている。そして三月堂(法華堂)は東大寺大仏殿が建立された時代よりも前に建てられた東大寺最古の建物で、創建は天平12年(740)から19年(747)の間と言われている。東大寺は何度か行っているのだ...
東大寺大仏のはなし
東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グル...
世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像
奈良県にある吉野山は古来桜の名所として有名で、三年前の桜の時期にバス旅行で行った時はものすごい人だった。吉野に来たほとんどの観光客が最初に訪れる世界遺産の金峯山寺(きんぷせんじ)は、明治7年に修験道が禁止されて一時的に廃寺となり、国宝の蔵王堂などは強制的に神社にされてしまったことは以前このブログにも書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html上の画像は江戸時代後期に描かれた「吉野山...
吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社
前回は吉野山の金峯山寺のことを書いた。 「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは平成16年(2004)だが、この時に世界遺産に登録されたのは、①吉野・大峯②熊野③高野山のそれぞれの霊場とそれらの参詣道で、吉野山における世界遺産の構成資産は、金峯山寺だけでなく、吉水神社(よしみずじんじゃ)、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)の寺社の他に大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)および...
奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
奈良は国宝や重要文化財の宝庫である。 平成16年のデータでは奈良県の国宝数は205で、東京、京都に次いで多く、全国の国宝の19%が奈良県にあることになる。また奈良県の国指定重要文化財の数は1377で、全国の11%だ。www.bunka.go.jp/1hogo/excel/kokuho0430.xls しかし上のデータには美術館や博物館などが所蔵する美術品や書跡、古書などの数字がかなり含まれている。大きな博物館や美術館が多い東京や京都の数字が多いのは当然の...
国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて
前回は白毫寺のことを書いたが、白毫寺から田園風景の残る静かな住宅地のなかの細い道を歩いて15分もすれば新薬師寺の南門に到着する。門をくぐると国宝の本堂が見えてくる。この建物は天平時代の建築で、新薬師寺創建当初の建物なのだそうだ。この本堂の中に、国宝の仏像が12体も安置されているのだ。 古刹の一つの建物の中で、これだけ多くの国宝の仏像を間近に参拝できる場所はかなり少ないと思われる。 以前このブログで「東大...
東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」
新薬師寺の国宝仏像を鑑賞した後、続けて天平時代の国宝仏像が見たくなった。 東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに...
奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて
東大寺戒壇院の四天王立像を見た後に、近鉄奈良駅から西大寺駅まで乗って、そこから歩いてすぐの「西大寺」に向かった。上の画像は「東門」だ。 西大寺の創建は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことから始まるのだが、造営当初の境内の広さは東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)と広大で、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四...
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
奈良県の五條市に天平時代の建築物である栄山寺(えいさんじ)八角堂という建物が残されていることを知った。何度か戦火に遭い、八角堂だけは焼けなかったそうだが、法隆寺の夢殿のようなこの国宝の建物をこの目で見たいと思って、五條市や吉野郡の天誅組や南朝の史跡を中心に巡る旅行を計画して、先日行ってきた。 栄山寺は、藤原不比等(ふひと)の長子である武智麻呂(むちまろ)が養老3年(719)に創建したと伝わり、その後、武智麻呂...
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
孝明天皇の大和行幸に先行して天皇の鳳輦を迎えようと、文久3年(1863)8月17日に五條代官所を襲って「五條新政府」を置いた天誅組であったが、翌8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も中止となって天誅組は1日で皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたことを前回の記事で書いた。総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿...
吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
竹林院群芳園で朝食を済ませて、吉野郡川上村にある蜻蛉(せいれい)の滝に向かう。あきつ小野スポーツ公園があり、その園内を川沿いに進むとこの滝が見えてくる。 蜻蛉というはトンボのことだが、『日本書紀巻第十四』雄略天皇の4年の記録にこの地名の謂れが出てくる。 「秋八月十八日、(雄略天皇は)吉野宮においでになった。二十日に川上の小野にお越しになった。山の役人に命じて獣を狩り出させられた。自分で射ようとして構えて...
文化財の宝庫・室生寺とそのルーツを訪ねて
室生寺のことを調べていると、久しぶりに奈良に行きたくなって、先日、室生寺にゆかりのある寺社と、私が訪ねたことのない近くの奈良の古い寺社などをおりまぜて、1泊2日で周ってきた。朝早く自宅を出て、最初に訪れたのは室生寺の末寺である大野寺(おおのじ:0745-92-2220)。かつては室生寺の西の大門とも呼ばれていたという寺だ。寺伝によるとこの寺は、白鳳9年(681年)に役小角(えんのおづぬ)により創建され、天長元年(824)に...
長谷寺、宇太水分神社、片岡家住宅を訪ねたのち洞川温泉へ
室生寺のルーツである「龍穴」を訪ねた後、次の目的地である長谷寺(はせでら:0744-47-7001)に向かう。室生の龍穴からは30分ぐらいで辿りつく。参道の入り口あたりに車を駐車して、門前町の賑わいを感じながら歩いていくと、正面の石段の上に仁王門が見えてくる。現在の建物は明治27年(1894)に再建されたもので、扁額の「長谷寺」の題字は、後陽成天皇の御宸筆だという。長谷寺は朱鳥(あかみどり)元年(686)に、天武天皇の病気平癒...
修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて
翌朝は雨が降っていたのだが、せっかく来たので朝食前に龍泉寺(りゅうせんじ:0747-64-0001)に出かける。伝承によると役小角(えんのおづぬ)が大峯山で修業中に洞川に降りて泉を発見し、「龍の口」と名付けて小堂を建て、八大龍王尊を祀ったのがこの寺の起源とされている。龍泉寺の境内には「龍の口」と呼ばれる泉から清水が流れ出ていて、大峯山に登る修験者達はここで水行して身を清めて、八台龍王尊に道中安全の祈願をして山に入...
日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
丹生川上神社下社を参拝した後、道の駅で昼食を済ませて、「日本百名城」の一つであり、「日本三大山城」の一つである高取城の城址に向かう。高取城は標高583メートルの高取山山上に築かれた山城で、Wikipediaの解説によると「曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松...
高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて
前回の記事で『藤原京の聖なるライン』のことを書いた。すなわち壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路の延長線上にあり、そのライン上に天武・持統天皇陵や高松塚古墳・キトラ古墳など天武朝の皇族に関係する古墳が点在する。壺阪寺の後は、ほぼ聖なるライン上にある高松塚古墳を訪れるため、国立飛鳥歴史公園館(0744-54-2441)に向かう。飛鳥歴史公園は5地区からなり、その中心が高松塚周辺地区で、公園の入園料も駐車場料金も...
又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
毎年4月の上旬に桜を楽しみながら歴史を散策する旅行を計画するのだが、今年は奈良の宇陀市から十津川村を巡ることにした。最初に訪れたのは宇陀市榛原区赤埴の仏隆寺(0745-82-2714)だが、この寺は室生寺の南門と言われていて室生寺とは本寺と末寺の関係にある。この寺の歴史は古く、嘉祥3年(850)に空海の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝えられているが、これより先に興福寺別当の修円僧都がこの地に開いた説もあるという...
天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ
宇陀松山を楽しんだのち、十津川村に向かう。十津川村の面積は672.38 km²あって「日本一の面積を持つ村」と言われるのだが、Wikipediaによると「北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい」とあり、わが国の施政権が及んでいる地域としては日本一大きな面積を持つというのが正しい表現になるようだ。ちなみに、日本一大きい村...
誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
温泉地(とうせんじ)温泉まで来れば熊野本宮大社もすぐ近くなので訪れる観光客が多いと思うのだが、熊野三山めぐりは別の機会にすることとして、今回の旅行の2日目に旅程に入れていたのは、熊野三山の奥の院と位置付けられ世界遺産にも登録されている玉置(たまき)神社である。神社に行く前に、十津川温泉近くにある野猿(やえん)を見に行く旅程を組んでいた。温泉地温泉から国道168号線を新宮方面に進み、十津川温泉に入ると途中で分...