消えた門跡寺院
江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。この本は国際日本文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。たとえば...
京都四条大橋の話
京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。 福本武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.ht...
消えた鶴岡八幡宮寺大塔など
鎌倉の鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。 鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。 上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。 幕末に来日したイギリス人の...
かみがもばなし
以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。 当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみが...
悲しき阿修羅像
今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。 今の奈良...
外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺
遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。 昨年の11月下旬に、生まれて初めてブログにチャレンジしてみましたが、予想を上回るアクセスをいただき大変励みになっています。拙い文章ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。**************************************************************************前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリ...
寺院が神社に変身した談山神社
3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。 昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長...
次々に廃寺となった奈良の大寺院
江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前がある...
文化財を守った法隆寺管主の英断
前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。 現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。 興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年に...
明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。 西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万...
明治の初期に、鹿児島県で何があったのか
以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。 薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485も...
明治期の危機を乗り越えた東大寺
以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何...
一度神社になった国宝吉野蔵王堂
3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。 最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「...
明治の皇室と仏教
5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都...
明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち
私が京都のお寺に生まれたことは何度かこのブログに書いたが、子供のころに何の理由もなく「くそ坊主」とか「洟垂れ小僧」などと罵られていやな思いをするようなことが何度かあった。このようなことは私に限らずお寺で生まれた人は少なからず経験したとは思うのだが、私が時々このブログで紹介する「廃仏毀釈百年」という本の著者である佐伯恵達氏も宮崎県のお寺の息子で、著書の中で「毎日のようにののしられ…、学校に行っても、...
なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の...
奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹...
廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃...
江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが...
水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯
前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日...
寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府
嘉永6年6月3日(1853年7月)、ペリーが米大統領フィルモアの親書を携え、艦隊を率いて浦賀に姿を現わしてから1年半が経過した安政元年12月23日(西暦1854年1月)に、こんな太政官符が出ている事が、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に紹介されている。「それ外寇事情は、固より深く、宸襟を悩ませらるる*ところなり。…国家の急務、ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て、大砲、小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き、不慮に備えんと...
全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
以前このブログで薩摩藩の廃仏毀釈のことを書いた。薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.htmlこのような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際...
神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
このブログで、岐阜県安八郡神戸(こうど)町にある日吉(ひよし)神社に三重塔が残されていることを先月書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.htmlこの日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂本の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられており、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社として発展したという。かつては「日吉」は「ひえ」と読み、比叡山を意味する...
日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられてい...
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
前回まで、奈良県の修験道の聖地などを周ってきたことをレポートしてきた。修験道は仏教でも神道でもなく、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教、儒教などが結びついて平安時代末期に成立した宗教なのだが、霊験を得るために山中の修行や加持祈祷、呪術儀礼を行なう者を修験者、または山に伏して修行する姿から山伏とも呼ばれている。修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られてきた...
浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
前回の記事で、あまりにも強引な明治政府の宗教政策に反対して、浄土真宗の僧侶や門徒たちが一揆を起こしたことに少し触れたが、今回はそのことについてもう少し詳しく記すことにする。浄土真宗は、既成教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶だけでなく門徒も共有していたことが大きいようだ。臼井史朗氏の『神仏分離の動乱』に、東本...
明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
前回は明治政府の強引な宗教政策に反対して、明治4年(1871)の3月に三河国碧海郡・幡豆郡(特に菊間藩飛領地域)の浄土真宗の僧侶や門徒が起こした『大濱騒動』のことを書いたが、今回は、『大濱騒動』よりもはるかに規模の大きかった明治6年(1873)の『越前護法大一揆』のことを記しておくことにしたい。『大濱騒動』では、明治4年(1871)に服部純という役人が領内の寺院住職に対して寺の統廃合の話を持ちかけたことを書いたのだが、同...
神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗
長浜市の湖岸から6kmほど先に、周囲2km、面積0.14㎢の竹生島が琵琶湖に浮かんでいる。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きな島で、ここに西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。この島へは、長浜港から琵琶湖汽船の船に乗って25分程度で到着するのだが、余程風の強い日には竹生島港に接近することが危険なためにたまに欠航することがあるのだそうだ。この日は風が強くて、竹生島港の波が強くて接近...
仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える
前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。「惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純...