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しばやんの日々

幻の映画、「氷雪の門」

8月20日、霧の深い早朝であった。突如ソ連艦隊が現われ、真岡の町に艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎に包まれ、戦場と化した。この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話の回線、避難経路の指示、多くの人々の生命を守るため、彼女たちは職場を離れなかった。局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはやこれまでだった。班長はたった一本残った回線に、「皆さん、これが最後です。さよ...

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった

昭和20年(1945)8月6日、米国は人類史上初の原子爆弾を広島に投下し、20万人以上の罪のない市民が虐殺された。8月8日にソ連は日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始した。 翌8月9日には米国は長崎に2発目の原爆を投下し、ここでも7万人以上の命が奪われ、この日に御前会議が開かれて、昭和天皇の聖断によって戦争終結が決まり、8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月1...

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由

前回の記事で、千島列島最北の占守島(しゅむしゅとう)で日本軍とソ連軍との激戦があり、日本軍が良く戦ったことを書いた。 占守島守備隊には停戦命令は出ていたが、ソ連軍の一方的な奇襲の報告を受けて、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が自衛のための戦いを決断し、ソ連軍を撃破した。日本側の死傷者600名に対してソ連軍は3000名以上の死傷者が出たとされ、日本軍が優勢であったのだが、その後日本政府の弱腰な対応で占守島守備...

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな

昭和20年8月15日の玉音放送によりわが国の降伏が国民に公表されたのだが、全面的な戦闘行動の停止が行なわれるまでには少し日数が必要だったようだ。Wikipediaには、こう解説されている。「1945年8月15日、大本営は陸海軍に対して『別に命令するまで各々の現任務を続行すべし』と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した。さらに8月18日には、全面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降...

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか

前回の記事で、ソ連が対日参戦したため満州(現在の中国東北地方)から引き揚げてきた日本人の悲劇の事を書いた。民間人を銃殺したり強姦したりしたソ連軍に非があることは言うまでもないが、日本人としては、関東軍がソ連の対日参戦直前に南方に移動したことが許せない。なぜ関東軍は、満州国境で民間人を護らなかったのか。ソ連が参戦した8月9日に日本陸軍が、最初に発した命令はこのようなものであった。「大陸命第千三百七十四号...

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか

このブログで『シベリア抑留』について何度か書いたことがある。『抑留』という言葉はわが国が旧ソ連に配慮した言葉と言って良く、実態は『捕虜』であり日本人が奴隷の如く酷使されたのであるが、終戦直後にはわが国の公文書や新聞などでも『捕虜』や『俘虜』という言葉がよく用いられていたことが確認できる。しかし、最近の教科書では『抑留』という言葉ですら使っていないことに気が付いた。たとえば、標準的な高校教科書である...

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応

柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』の話題を続けよう。柴田氏によると、終戦直後から日本共産党は「戦争反対を終始一貫主張し続けてきたのは我が党だけである」と宣伝していたのだそうだが、その主張が嘘であり、むしろ共産主義者たちがわが国を戦争に巻き込んだことを裏付ける論文などが当時は存在していて、三田村武夫氏が主張する「コミンテルンの世界革命計画に従って、わが国を戦争に巻き込み敗戦に導くことによって、一挙に...

日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな

前回の記事で、昭和20年10月に再刊されたばかりの日本共産党の機関紙『赤旗』第一号の『人民に与う』という論文で、米占領軍を「解放軍」と賛美していたことを書いた。そして翌年2月の第5回日本共産党大会では、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の党の綱領的方針として採択されている。その当時のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)にはソ連に繋がるスタッフが数多くいて、わが国を共産国化させるプログ...