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しばやんの日々

幕末の孝明天皇暗殺説を追う

前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。 「幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html もちろんリストの中には...

「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。そ...

幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか

学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述はいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明を鵜呑みにした記憶がある。Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。 「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸...

「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」である。この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習しておこう。 安政5年(1858)4月に大老職に就いた彦根藩主・井伊直弼は、幕府の権威を復活させようとし、勅許をえないまま6月に日米修好通商条約に調印し、また、子供のいない十三代...

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか

文久2年(1862)8月21日、4人の英国人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇した。その時英国人は騎乗のまま行列を横切ろうとし、薩摩藩士はこれを止めようとしたにもかかわらず、それを無視してそのまま進んだので、激昂した藩士が英国人に斬りかかり、1人が死亡し2人が負傷したという事件があった。世に言う「生麦事件」である。学生時代にこの事件のことを学んだ時は、当時は攘夷の気運が高まり外人殺傷事件がしばしばおこり、...

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうな本を探す。「薩英戦争」...

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった

前回は、文久3年(1863)の薩英戦争は、英国艦隊が錦江湾に停泊していた数隻の汽船を拿捕したことから、薩摩軍が砲撃を開始したことを書いた。薩摩軍が砲撃を開始したなら、英国軍も直ちに砲撃を開始すると誰でも思うところだが、英国軍がすぐに始めたのは、拿捕した汽船内に入って金目のものを掠奪することだった。その汽船は、英国が薩摩に要求していた賠償金よりもはるかに高価な汽船であったようだが、交戦命令が出ているのにも...

江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える

菊池寛の『大衆維新史読本』という本を電子書籍で見つけて読んでいると、面白いことが書かれていたので紹介したい。文中の「ペルリ」とは嘉永6年(1853)に浦賀沖に姿を現した、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのことである。「甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠(いんろう)、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕(ばくえき)する隙なく、第二に身持堅気(かたぎ)になり、仕...

攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか

はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。【薩摩天保】以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記...