昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
前回まで2回に分けて、昭和3年(1928)の「満州某重大事件」について書いた。簡単に要約すると、この事件に関しては関東軍がやったということが定説となっているが、この説には確たる証拠はなくほとんどすべてが噂や伝聞によるものであり、現場で撮影された写真や現場検証の記録は悉く定説と矛盾している。その一方、公開されたイギリスの外交資料には明確にソ連が実行し日本に疑いが向くように工作したものと結論付けられており、旧...
軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
前回の記事で、日本軍には左翼分子が少なからずいて、軍部の「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に従ったものではないかということを書いた。当時、そのことに気が付いた人の記録が残っていることも書いたが、今回は昭和20年2月に近衛文麿が天皇陛下に対して戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』を紹介したい。この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いているのだが...
尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
前回の記事で近衛文麿が、軍部内の革新論に立つメンバーが、わが国を共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは計画的なものであったことは明らかであると述べていることを紹介したが、一人だけだとあまり信用していただけないと思うので、今回は軍部を動かしていた側の文書を紹介してみたい。 共産主義者に軍部を動かす動機があったことを知るた...
「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中に、入手経路が不明なるが故に怪文書とされているものがある。偽書なのか本物なのかは今となっては判断できないのだろうが、そこに書かれていることは極めて重大なことである。 入手ルートは秘匿されても、国会図書館に所蔵されていることは、当時としては信頼できる筋から入手したものなのだろう。そこに書かれているのは、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会にお...
「二・二六事件」と中国の「西安事件」に垣間見えるコミンテルンの影
前回の記事で、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を紹介し、当時コミンテルンが立てていた戦略は、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占めることであったことを書いた。このコミンテルン大会の後でわが国と中国で起こった事件を調べてみると、不可解でかつ重大な出来事が相次いでいることに気が付く。 先に中国側の出来事から見て行こう。まず、...
アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影
前々回の記事で昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説で「砕氷船のテーゼ」と呼ばれる部分を紹介した。再掲すると、 「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと...
昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
昭和20年8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表され、全日本軍は一斉に戦いを止めて連合国に降伏した。この8月15日が『終戦の日』で、この日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていたのだが、樺太や千島や朝鮮半島ではその後もソ連軍と激しい戦いが続き、多くの犠牲者が出たことを知ったのは比較的最近のことである。 日本人の多くがそのことを知らないのは当然の...
ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
前回の記事でソ連によるシベリア抑留のことを書いた。シベリア抑留を体験された斉藤六郎氏が国を相手の補償要求裁判をされて「全国抑留者補償協議会(全抑協)」という会を立ち上げられ、その裏付けのためにモスクワに何度も足を運ばれてモスクワの公文書館に保存されていた極秘文書のコピーを大量に持ち帰られたのだそうだが、その資料の中にはわが国にとっても、かなり貴重なものが含まれているという。 以前は山形県の「シベリア...
GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
以前このブログで、三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という書物が英訳されて、当時GHQ(連合国総司令部)の情報部長であったウィロビーの眼に止まったことが、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなったことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html マッカーサーはこのウィロビー将軍のことを、「在任中に出会った最も優れた知性派の将校であり、陸軍広しといえども将軍に続く人物を...
終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、わが国政府はこれを連合国に通知し、翌15日の正午に昭和天皇自らの肉声による『終戦の詔書』が全国に放送された。わが国が敗戦した当時、国外にいた軍人・軍属がおよび民間人はそれぞれ約330万人で、合わせて660万人と見られているのだそうだが、帰還事業は米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど米国の援助を得て急速に進み、敗戦の翌年までに約500万人が海外...
アメリカまでのびていたゾルゲ諜報組織の「赤い糸」
前回、前々回の記事で紹介した『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』に1964年9月5日付の『ニューヨークタイムズ』紙のこのような記事が紹介されている。「モスクワ発9月8日―――ソ連は第二次世界大戦中、東京にあるドイツ大使館情報宣伝課に勤めていたリヒアルト・ゾルゲが、ソ連スパイ団を巧妙に指揮していたことを認めた。共産党機関紙『プラウダ』が、ゾルゲが提供した情報の結果、ソ連軍は1941年秋におけるドイツ軍のモスク...
GHQの中にもソ連の工作があったのではないか
ウィロビーの回顧録を読み進むと、わが国の「公職追放」に関するニューズウィーク紙(1947年1月27日付)の「日本の公職追放の裏側――米国軍人の対立」という論文の一部が引用されている。そこにはこう書かれている。「公職追放を財界へも及ぼしたため、日本の財界人は5千人から2万5千人がその職を追われ、その上三親等までその職に就けないから、犠牲者は約25万名にのぼる。これによって日本の全経済機構の知能が取り除かれてしまった...
アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情
ウィロビーの回顧録を読み進んでいくと、1947年4月23日付でウィロビーが纏めさせたマッカーサー最高司令官に宛てた『総司令部への左翼主義者の浸透状況』というマル秘レポートが掲載されている。一部を紹介させていただく。まず、どの程度ソ連に近い人物がGHQにいたのだろうか。このレポートにはこう書かれている。 「総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の...
朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか
1950年6月25日の午前4時に朝鮮半島の38度線で、突如北朝鮮による砲撃が開始され、10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。米駐韓国大使のジョン・ムチオは、ワシントンの国務省に宛てて次のような報告をしている。 「1950年6月25日ソウル発 韓国軍事顧問団の資料によって、一部確認された韓国陸軍からの報告によれば、北朝鮮は今朝、韓国の領土に対し数ヵ所にわたって侵略を開始した。攻撃はほぼ午前4時に開始され、甕津(オング...
朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか
仁川上陸作戦で北朝鮮軍の補給路を断ち攻勢に出た国連軍を指揮するマッカーサーに対し、米統合参謀本部は北進攻撃の許可と詳細な指令を1950年9月28日に出し、いよいよ38度線を超える北進攻撃が開始された。しばらくウィロビーの回顧録を引用する。 「連合国軍による38度線を突破しての北進攻撃は、まず韓国軍の二個師団によって開始された。1950年9月30日、これらの部隊は東海岸沿いの道路を一挙に北上、10月3日には38度線を突破し...
スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
前回は、トルーマン政権が朝鮮戦争で国連軍を勝たせないようにしたのではないかということを書いたのだが、その後スターリンの極秘文書の中から、スターリンがアメリカを朝鮮戦争に誘導したと記述している書簡が発見されているので紹介したい。 韓国の新聞である『中央日報』が2008年6月に報じた記事を、その日本語版のホームページで誰でも読むことができる。ちょっと長いが、全文を引用させていただく。 韓国の新聞なので「朝鮮...
『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
前回まで、わが国が連合軍に占領されていた時期から朝鮮戦争までの歴史を追ってみた。ウィロビー回想録の文章を引用しながら当時の雑誌などの記事をいくつか紹介してきたが、これらを読んでいくと、今までわが国の教科書やマスコミなどで広められてきた現代史の知識はかなり一面的なもので、一番重要なソ連の関与には全く言及していないことに気づくことになる。以前このブログで1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内...
尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
前回および前々回の記事で、1928年以降アメリカだけでなくわが国においても、政府や軍部の中枢部にソ連の影響が大きかったのではないかということを述べてきた。 今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和16年10月に逮捕された尾崎秀実が昭和17年(1942)3月か4月頃に獄中で執筆した手記を紹介したい。 尾崎秀実を取り調べた宮下弘氏の著書によると、尾崎は10月15日の早朝に逮捕され、正午から取り調べが始まり、先に逮捕されていた...
ゾルゲ、尾崎らが一斉検挙に至った経緯について
前回の記事で尾崎秀実自身がソ連のスパイ活動をしていたことを記述した獄中手記の文章を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘と言う人物だが、特高はその前に、アメリカ共産党員の宮城与徳を自白させてゾルゲや尾崎がスパイ活動をしているとの供述を引き出している。ところが、当時この宮城与徳という人物については捜査線上になく、北林トモというアメリカ共産党員の取調べで浮上してきたという。...
尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後
前回の記事で、北林トモの供述に基づき宮城与徳が逮捕されたのち、宮城は仲間のこと等について固く口を閉ざしていたことを書いた。では何がきっかけで、宮城が供述を始めることになったのか。 宮下氏の著書にはこう書かれている。「で、宮城は取調べで、スパイであることは認めざるを得なかったのだが、しかし仲間については口を割らない。言わなければならないときは死のうと申し合わせをしていた、とあとになって言っていたが、...
特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか
前回まで3回にわたって、宮下弘氏の『特高の回想』の文章を引用しながら、ゾルゲ事件について書いてきた。この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていた点にあるのではないか。よくよく考えると、戦後のマスコミや教育界・出版界・学会を長らく...
特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党
前回記事の最後に、昭和8年(1933)の12月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件で日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の2名がリンチに遭い、翌日に小畑が死亡したのだが、この二人が仲間から暴行を受けた理由は「特高のスパイ行為を働いた」というものであった。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-283.html『特高の回想...
軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
すこし前にゾルゲ事件で主謀者が検挙されたことをこのブログで2回に分けて書いたが、その話に戻そう。ゾルゲや尾崎が捕まったといっても、ソ連の工作ルートは世界に拡がっていて、その一部が解明されたに過ぎなった。宮下氏は中国共産党につながる諜報ルートが恐らく別にあって、それを解明する必要があると考えていたようだ。しばらく宮下氏の文章を引用する。「尾崎秀実の取調べで、周辺の一人ひとりについてくわしい説明を求め...
昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
前回の記事で、わが国の終戦工作を担当した陸軍大佐がひどくソ連寄りであったことを書いたのだが、ではなぜ、わが国の軍隊の中枢部に共産主義思想の持ち主が入り込むことを水際で阻止できなかったのかと誰でも思う。以前このブログで、尾崎秀実を取り調べた特高の宮下弘氏の著書『特高の回想』を紹介したことがある。その宮下氏が右翼担当であった時に、皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れたことがあり、その時に真崎が宮下氏に語った...
ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するた...
日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む
前回は、ソ連が如何にしてわが国や世界に共産主義を拡げていったかについて書いたのだが、読者の中には、「軍国主義」を礼賛したような時代のわが国の新聞に書かれている記事を紹介されても、その内容そのものが信用できないという方もおられるだろう。そこで今回は、当時の日本共産党が軍部に対してどのような文書を拡散していたかを紹介したい。昭和7年(1932)9月1日に日本共産党が対軍工作の為に出した『兵士諸君に与ふ』という...
なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む
高校で日中戦争を学んだ時に、わが国がなぜ戦争に巻き込まれのかが理解できなかったのだが、最近の教科書ではどう書かれているのかと思って『もう一度読む 山川の日本史』を読み直してみる。そこにはこう記されている。「日本はしだいに中国北部にも勢力を伸ばし、この地方の軍閥に力を貸して、国民政府の影響から切り離そうとした。そのころ中国では、国民政府と共産党の内戦が続いていたが、1936(昭和11)年に張学良が蒋介石を監...
南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸...
日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか
前回の記事で、蒋介石は上海戦に続く南京戦に勝算がないことは承知しており、南京陥落の後に日本軍の暴行を世界に宣伝し、武力戦で負けても宣伝戦で勝つという国策に立っていたことを書いた。蒋介石総統および政府・軍部の首脳は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡したのだが、これも予定の行動であったと思われる。というのは、無責任にも南京から逃亡した唐生智は、その後栄転して中国国民党...
わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。し...
『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
前回の記事で柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』という本を紹介した。この本には、第一次近衛内閣の時にわが国が日中戦争に巻き込まれ、さらに本格的な臨戦態勢が打ち出されて全体主義的統一国家へと変貌していったのだが、それを推進したのは近衛が集めたブレーン・グループで、その一部は尾崎秀実のようにソ連・コミンテルンに繋がっていて、彼らはわが国を敗戦に導くことによって一挙に共産主義革命を実現する考えであったとい...
長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話
シベリアの抑留を体験し、帰国後に全国抑留者補償協議会を結成し、ソ連政府と直接交渉を重ねて抑留死亡者名簿の引渡しや墓参の自由化を実現させた斎藤六郎氏が、何度かロシア公文書館を訪れて関東軍に関する重要書類の大量のコピーを我が国に持ち帰っている。ロシア公文書館には旧ソ連軍が持ち去った関東軍の機密文書が大切に保管されていたようだ。その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「...
コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか
1917年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、その後しばらくは混乱が続いている。一般的な教科書にはこう解説されている。「パリ講和会議の開催中、日・米・英・仏の4ヵ国はそれぞれソヴィエト領内に出兵し、干渉戦争(1918~22年)を戦っていた。またソ連国内の反革命派も反乱にたちあがり、革命政府は一時苦境におちいった。しかし外国の干渉はかえってロシア国民の愛国心を高め、政府は赤軍を増強して反撃...
尼港事件の大惨事を教科書やマスコミはなぜ伝えないのか
前回の記事で、ソ連が「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行い、西欧諸国の共産化が失敗した後は工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにされていたことが、戦前のわが国の新聞記事で具体的な事例を多数確認できることを紹介した。前回は昭和3年(1928)以降のわが国に対する工作活動を中心に記事に書いたが、そればかりではなく極東における「世...