英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
前回の記事で、帝国議会の開設を明治政府が宣言した後に自由党も立憲改進党も衰退に向かい、帝国議会開設に近づくと再び自由民権運動が動き出すのだが、明治政府は明治21年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させたことを書いた。立憲改進党はその後集団運営体制に移行し、党首を欠いたまま明治23年の帝国議会の開設を迎えることになったのだ。しかし、この重要な時期になぜ、大隈重信は立憲改進党の仲間を裏切ってまで...
英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件
前回の記事で、わが国で「条約改正」の世論が盛り上がった背景に、わが国に阿片を持ち込んだ英商人が無罪とされたことや、コレラが流行していた清国からわが国へ直航してきたドイツ船・ヘスペリア号がわが国の検疫要請を無視し、横浜入港を強行した事件があったことを書いたが、もうひとつ国内世論を沸騰させた有名な事件があるので書き記しておきたい。明治19年(1886)10月24日の夜、横浜港から神戸に向かっていたイギリス船籍の貨...
条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か
前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日本人乗客が全員溺死した事件を紹介した。最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっ...
陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について
引き続き条約改正に関する記事を続ける。前回の記事に関する補足だが、わが国の悲願であった条約改正を成功させる寸前まで来た大隈重信の交渉を、振出しに戻した背景には何があったのだろうか。早稲田大学名誉教授の木村時夫氏は『日本における条約改正の経緯』のなかで、この背景についてこう解説しておられる。「…当時の日本国民は井上案と大隈案とを仔細に比較検討することをせず、外国人判事任用の一点だけを取上げ、それを国...