明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか
前回の記事で、陸奥宗光外相らの努力により日清戦争の始まる直前に、英国との間に治外法権を撤廃する条約改正が成就したことを書いた。キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだが、この言葉の意味を理解するためには当時の朝鮮半島のことを知る必要がある。以前このブログで「征韓論争」のことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.co...
福沢諭吉は、どういう経緯で『脱亜論』を書いたのか
甲申事変の後、日清間で締結された天津条約(1885年)によって日清両国は朝鮮より撤兵したが、清の袁世凱(えんせいがい)は通商事務全権委員という名目で依然ソウルに留まり、朝鮮への圧力と干渉を強めていった。ところが、天津条約で日清両軍が撤兵したことは千載一遇のチャンスであるとみて、ロシアという新たな脅威が朝鮮半島に進出してきたのである。1884年、ロシアが朝鮮と通商条約を結んだ後に駐韓公使となったウェーバーが、清...
日清戦争開戦前の5ヶ月間の動きを追う
前回の記事で、明治27年(1894)3月28日に金玉均が暗殺されたことを書いたが、4月2日にはロンドンで英国との条約改正の交渉が始まり、7月16日には英国外務省において日英通商航海条約が調印され領事裁判権が撤廃された。また8月1日には日清両国が相互に宣戦布告し日清戦争が開戦している。このように明治27年という年は、わずか5ヶ月の間に随分大きな事件が相次いでいることに驚いてしまう。今回はその5ヶ月間について、日清戦争が始...
日清戦争で日本軍は、陸も海も連戦連勝だった
明治27年(1894)7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦の秋津洲(あきつしま)、吉野と浪速(なにわ)の三鑑が、会合予定であった巡洋艦の武蔵と八重山を捜していたところ、突然、清国巡洋艦の済遠(サイエン)と広乙が海上にあらわれた。この段階では日清両国で互いに宣戦布告は出されていなかったが、わが国が7月19日に突きつけた5日間の猶予つきの最後通牒への返答がないまま期限が切れており、法的には戦争状態に入っていた。...
三国干渉に直面したわが国の外交交渉はいかなるものであったのか
世界の予想を裏切ってわが国は清に圧勝し、講和談判が下関で行われて、明治28年(1895)4月17日に講和条約(下関条約)が調印された。この条約によって清国はわが国に①朝鮮の独立②遼東半島・台湾・澎湖島の割譲③賠償金2億両(テール:当時の日本円で3億1000万円)の支払いなどを認め、わが国は戦勝の喜びに沸いたのだが、清国ではその逆で囂々たる反対で沸き返ったという。中村粲(あきら)氏は清国の動きを著書でこう述べている。「例えば...