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しばやんの日々

家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818外様大名に対しては、家康はこう述べたという。「…...

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペイ...

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯

前回の記事で、徳川家康は当初はキリスト教に比較的寛容であったことを書いた。寛容ではあったが、家康がキリスト教を信仰していたわけでもない。どちらかといえば警戒していたのだが、かといって秀吉の禁教令を棄てたわけでもなかった。ではなぜ家康は、当初はキリスト教に寛容であったのか。徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』でこう解説している。文中の「耶蘇教」というのはキリスト教のことである...

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣

前回の記事で、キリスト教に寛容であった徳川家康が、慶長17年(1612)に、幕府直轄地に対して急に禁教令を出して、翌年にはそれを全国に拡大して、長崎や京都にあった教会が破壊され、慶長19年(1614)には、多くのキリスト教徒が国外追放されたことを書いた。キリスト教の弾圧は豊臣秀吉の頃が最も激しかったとの印象を持っていたのだが、家康の時代にはどうだったのか。以前このブログで紹介した、大正14年に出版された山本秀煌(ひ...