江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
前回の記事で、慶長18年(1613)に全国に出された禁教令で、各地で追放処分を受けたキリスト教信徒たちの多くは長崎に避難して、長崎では教会が復活しミサも行なわれるようになったことを書いた。家康は、晩年にはキリスト教に対し比較的厳しい態度をとったのだが、日本人信徒に対しては厳しくとも、外国人に対してはどちらかというと寛大であった。その理由は、家康自身が外国貿易のメリットを捨てきれなかったからであろう。ところ...
徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国...
徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き
江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインやポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が...
島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキ...
島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
前回の記事で、島原の乱は年貢の減免を求めて農民たちが蹶起したのではなかったことを書いた。乱を主導したのは小西行長の遺臣たちで、代官のもとに押しかけた農民たちは、自分達は元のキリシタンに戻ると宣言し、他の村々や周囲の人々にも、キリシタンに戻ることを迫り、寺社に放火し、僧侶や神官を殺害するなど、宗教色の強いものであった。厳密に言うと、島原では慶長19年(1614)に松倉重政が入封し、以降のキリシタン弾圧により...
島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
前回の記事で、島原の乱の「一揆勢」が短期間のうちにキリシタンに立ち返り、社寺を破壊し僧侶や神官を殺害した経緯は、キリスト教の教義にある「最後の審判」と関係がありそうなことや、彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも江戸幕府はそのように考えていたことなどを書いた。「一揆勢」が原城に籠城して3カ月も持ちこたえることができたのは、彼らが武器と弾薬を大量...
島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
島原の乱が、単純な百姓一揆とは異なる重大事件であったことは前回まで縷々記してきたが、では江戸幕府は、大量の鉄砲と弾薬を持って立て籠もった「一揆勢」をどうやって鎮圧したのであろうか。前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊本藩主・細川忠利らから批判があったようだ。しかし、熊本藩の...
島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
前回の記事で江戸幕府は、島原の乱の「一揆勢」のバックに外国勢力がいると考え、その国はポルトガルであるとしていたことを書いた。だからこそ江戸幕府は天草四郎の首を、長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのである。実際に島原の乱の「一揆勢」がどこの外国勢力と繋がっていたかどうかについては、ポルトガル側には決定的な史料はないようなのだが、江戸幕府がそう判断していたこ...
島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した
島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。寛永15年(1638)5月2日に「一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/p...
江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した
Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BDこの記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ...
シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる
出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所...