応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える
前回の記事で、1420年頃から太陽活動が極端に低下する『シュペーラー極小期』が始まっていて、それから冷夏・長雨による飢饉の記録が増加していることを書いた。このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような...
飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】Wikipediaにはこう解説されている。「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が...
室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
前回まで2回に分けて応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返したのだが、室町幕府は有効な対策が打たないまま、『応仁の乱』が起きたことを書いた。『応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日本史』で確認すると、こうなっている。「応仁の乱義教死後の幕府は守護大名の勢...