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しばやんの日々

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1

昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。 最近になって、ロシア人のドミトリー・プロ...

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。 関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動...

関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった

以前このブログで、昭和3年(1928)6月4日の「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」の事を2回に分けて書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.htmlhttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.htmlわが国の教科書では今も日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したと書かれているのだが、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪...

関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であること...

満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

「満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が清(しん)である。清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわか...

関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。【溥儀】この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。「しかし、軍事・外交は...

リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか

前回の記事のなかで、昭和6年(1931)9月の満州事変以降関東軍が満州全土を占領した頃の世界には、わが国に理解を示す論調が少なからずあったことを述べた。その翌年3月に満州国が成立し、わが国は「国際的な非難をあびた」と教科書などで記されているのだが、このように書かれる根拠はその後の国際連盟の動きにあると思われる。わが国が国際連盟を脱退した経緯について、『もういちど読む 山川の日本史』では次のように記されて...

満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州は満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人...

満州に関東軍が駐留していた背景を考える

教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州に関東軍がいたかについて一言も触れることがない。黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍が満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。「ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権...

満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件から始まった満州事変で、30~40万いたとされる張学良軍は、およそ1万の関東軍によって総崩れとなって満州から駆逐されてしまったのだが、彼らは圧倒的に兵士の数では関東軍よりも優位にあっただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。Wikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である...

満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国

前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。「そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代ア...