鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
中学・高校で日本史を学んだときに腑に落ちなかったことがいくつかあった。例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからという...
鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2
前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。鉄砲を捨てた日本人 日...
毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか
毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。 元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。 今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。 元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈に...
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1
フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師である。 大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-109.htmlこんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこ...
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2
前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。前...
400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
ブラジルサンパウロ州サンパウロ市で発行されている、日系人や駐在員向けの日本語の新聞で「ニッケイ新聞」という新聞がある。この新聞はネットでも読む事が出来るが、その新聞に2年前に連載された記事を見つけたときに衝撃を受けた。その記事とは、フランシスコザビエルが日本でキリスト教の布教をしていた時期から1600年頃までの約50年間に大量の日本人が南米に渡っている記録がいくつか残されているという話なのだが、それも主...