震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波
明治29年(1896)6月15日の三陸地方の夜は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎えて多くの村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわであった。またこの日は旧暦の5月5日でもあり端午の節句を親戚家族で祝う家が多かったという。その日の夜7時32分頃に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表によれば震度2~3程度のもので、この地震に気がつかなかった人が多かったそうだ。しかし揺れは5分近...
「昭和三陸津波」の記録を読む
昭和8年(1933)3月3日の午前3時ごろ、東北地方の太平洋沿岸に震度5の地震が襲った。 震源は日本海海溝付近でマグニチュードは8.1と記録されている。これといった地震の被害はなかったが、この地震から20分から40分後にまたもや大きな津波が沿岸を襲い、被害は岩手県中心に流失全半壊、焼失約六千戸、死亡・行方不明が三千人以上と言われている。この地震は前回書いた明治29年(1896)の大津波からわずか37年後のことであった。 前回の...
龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
しばらく地震の記事ばかり書いていたら、ブログ仲間から桜の写真を催促されてしまった。 桜の時期になると毎年どこかへ桜を見に行くのだが、ブログを書き始めてからどこに行くか随分迷うようになったし、どこの写真を撮るにしてもアングルなどに随分こだわるようになった。 有名なところはどこへ行っても人が多いのでゆっくり景色を楽しめず、余程早くいかないと人や車や電線など余計なものが写ってしまう。マイクを使ってイベント...
関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1
大正12年(1923)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た大災害であった。 多くの犠牲者が出たが、火災による死者が最も多く9万1千人を数え、東京本所被服廠跡では4万4千人が無残の焼死を遂げたそうだ。次のURLには、東京本所被服廠跡の写真が掲載されているが、大空襲でもあったかのような悲惨さで、と...
関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)
前回は関東大震災時における火災のことを書いたが、被害は火災ばかりではなかった。 震源に近い三浦半島から伊豆半島にいたる相模湾沿岸では、地震そのものによる家屋の被害のみならず、山崩れや土石流及び津波の大きな被害も記録されている。まず、山崩れや土石流による被害はどうであったか。神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)の根府川集落で、白糸川上流で発生した土石流により64戸の家屋が埋没し、406人が死亡したそうだ...