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しばやんの日々

金閣寺と足利義満の野望

幕末から明治にかけて外国人も含め多くの写真師が写真館を開業し、慶応2年に来日したイタリア生まれ英国籍のフェリックス・ベアトが撮影した日本の景色や風俗の写真が、横浜のファーサリ商会に引き継がれて明治23年(1890)に写真帖が出版されている。その写真帖の貴重な当時の写真が早稲田大学の次のURLに紹介されている。http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/farsari/index.html 上の画像は、ファーサリ商会の写真帖にあ...

大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ

ドライブや旅行で地方に行くと、素晴らしい文化と繁栄の歴史を持ちながら、時代の流れと共に若い人が地元を離れて衰退し、その地方固有の伝統や文化も後継者を失っているのを見て悲しくなることがある。いくら文化的に価値の高いものであったとしても、その文化を支えてきた仕組みがその地方に残らなければ、いずれ消滅してしまうことを避けることは難しいのだろう。 昔はどんな地方にも地元で働ける仕事が少なからずあり、若い世...

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。 改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸...

メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。 今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプ...

教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。 この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。 「…日本における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでし...

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4

慶長遣欧使節は日本人が初めてヨーロッパの国を訪れて外交交渉をし、1615年1月30日にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見したのだが交渉は成功せず、支倉常長は、ソテロをフィリピンに残したまま、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。 伊達政宗は常長から遣欧使節の絶望的な報告を聞いたはずなのだが、記録は何も残されていない。 支倉常長が日本を出発した慶長18年9月15日(1613...